孤悲
藤瀬京祥
孤悲
「
あの人が初めてお屋敷に来たあの日、お父様はそうわたしたちに紹介した。
真新しい学ランを着た、スラリと背の高い人。
最初に目が合ったのはわたしだったと思う。
けれどあの人はすぐ気まずそうに目をそらすと、わたしの隣に立つ妹を見た。
そして優しそうな笑みを浮かべる。
「初めまして、
「初めまして!」
嬉しそうな笑みを浮かべて挨拶を返す妹が見上げると、あの人は大きな手で、妹のふわふわとした髪をくしゃりと撫でる。
五歳下の妹は目鼻立ちがはっきりしていて愛らしく、癖のある髪は伸ばすとふんわりとしていてまるで西洋人形のよう。
お父様もお母様も、わたしなんかより妹の琴緒を可愛がっていた。
だからこの時わたしは (ああ、この人も……) そう思ってがっかりした。
たったこれだけのやりとりだったけれど、酷く落胆したことをいまも覚えている。
「
改めてわたしを見た時には、つい先程妹に見せた笑みは消えていた。
わたしには、妹のような華やかさも愛嬌もない。
お父様やお母様が、妹に選ぶ華やかなお着物も髪飾りもわたしには似合わない。
お友だちも、みんな妹を 「可愛い」 と褒めちぎる。
決してわたしには向けられない言葉。
学校から帰ってきたあの人は、書生のあいだで流行っているといって、着替えたお着物の下にスタンドカラーのシャツを着る。
そしてお友だちとお芝居を見に行くという妹を送ってゆく。
流行のカフェに、美味しいあんみつがあるといって二人で出掛けてゆく。
いつも楽しそうに連れだって家を出る二人を、わたしはただ黙って見送るだけ。
お父様にはわたしと妹しか子どもはいなかったから、どちらかがお婿さんを取って家を継ぐことはわかっていた。
普通なら姉のわたしだけれど、お父様もお母様も妹ばかりを可愛がっていたから、わたしはお嫁に出されて妹が継ぐことになるかもしれない。
あの日、お父様があの人をお屋敷に連れてくるまではそれでもいいと思っていた。
あの人と出逢うまでは……
けれどあの日、挨拶で妹に向けられたあの人の笑顔を見た時、わたしは察した。
(ああ、お父様は琴緒と立芳さんを結婚させるおつもりね)
そうして家を継がせるのだと……。
わたしが思っていたとおり、学校を卒業したあの人は、そのままお父様の秘書となって働き始めた。
書生だった頃と変わらず、お屋敷に住み込んで。
書生だった頃と変わらず、休みの日には妹と出掛けてゆく。
わたしはそれをそっと見送るだけ。
けれどある日、わたしと妹を呼んだお父様があの人の前で仰った。
「立芳に、箏子と結婚してこの家を継いでもらう」
わたしは自分の耳を疑った。
だって家は妹と立芳さんが継ぐと、あの日からずっと思っていたから……。
それなのにお父様は、立芳さんとわたしを結婚させようとしている。
次の瞬間には言い間違えたのではないかとさえ思ったけれど、横に立っていた妹が、華やかな笑みを浮かべてパンッと手を打ち鳴らす。
「おめでとう、お姉様!
立芳さん!」
その言葉を聞いてお父様も満足そうな笑みを浮かべると、婚約がどうとか……何か話していたみたい。
けれどわたしはお父様の言葉が信じられず呆然としていたから、お父様の話をまるで聞いていなかった。
あの人がどんな顔をしていたかも覚えていない。
それから数日経っても、わたしにはあの人との婚約に実感はなかった。
あの人はあの日と同じように妹に優しく笑いかけ、妹は嬉しそうにほほえみ返す。
そして休みの日には二人で出掛けてゆく。
二人の関係は変わらなかったから。
(お父様は何を考えておられるのかしら?)
いいえ、お父様だけではない。
妹も、あの人も、何を考えているのかわからない。
でもきっと、三人にはわたしが何を考えているのかわからないに違いない。
お父様はわたしが長女だからあの人との婚約を決めただけ。
あの人はお父様の命令だから逆らえない。
妹はきっと、わたしからこの縁談を降りるのを待っている。
わたしはどうしたらいいのでしょう?
もちろんわかっているのです。
妹の幸せを願うのならわたしから降りるべきだと。
お父様もお母様も、わたしからそう言い出すのを待っている。
あの人も……
それでもわたしはあの人を諦めたくなかったのです。
決して妹のことは嫌いではありません。
両親が妹を溺愛していることもわかっています。
けれどわたしにはどうしても自分からあの人を諦めることが出来なくて、心をぐちゃぐちゃに乱しながらも、今日も楽しげに出掛けてゆく二人を見送るのです。
独り、この想いに心を乱しながら……
孤悲 藤瀬京祥 @syo-getu
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