第2話 リウとニジ

 リウは賄いをもらい中庭にでた。井戸のかたわらにおかれた、糸束を漬けたたらいの水面に月がうつりこんでいる。

 生け垣から影が分離してかたちを成し、ふたつの光る点をもったちいさな闇のかたまりがリウに近づいてきた。

「ニジ、ニジ」

 黒猫だった。足もとにまつわりついてくる猫に呼びかけながら、踏まないように気をつけつつ生け垣そばに隠すようにおかれた椀に、取り置いておいた塩味のない菜をいれる。その菜を猫が食べはじめたなか、もうひとつの椀の水をすて、新たな水に汲みかえる。リウはそばにしゃがみ込み、しゃくしゃく音をたてたべる黒猫の、ちいさなこうべをみている。自然笑みがこぼれおちる。

 よくぞ無事にいてくれたものだ、とおもう。リウはほとんど屋敷の外にでることはなかったから噂話をもれ聞くだけにすぎないが、ここ最近、化生のものが跋扈するようになり犬や猫はおろか、ひとも餌食になることがふえているのだという。具体的にどのような化け物なのか、どのような惨状であるのかまではわからないし、べちゃらべちゃら想像しておもしろおかしくはなすのにまでは付き合わなかったが。

 また、それのみあらず、人気も荒くなってきているようで、鬼と呼ばれる盗賊がちまたにもあらわれるようになっているという。鬼とは山賊であり、山に住み、山をとおる商人や豪族を襲って生を営む集団であったようだが。

 加えて、北の辺土では冷害で飢饉になっているところもあるらしく、逃げ出してきたものが都に散見されるようになってきているらしい。そのなかにはやむにやまれずだろうが、犬や猫やネズミをとって喰うものもいるらしい。北の辺土といってもひろく、いろいろではあったが、そのはなしが出るたび、北のほうの出身であるリウはあてつけるようにいわれたり見られたりしたものだった。

「親兄弟いてるんやないん?」

「都が泥くさなってかなわんわ」

 リウはなにも応えない。応えてもおもしろがらせ過剰にいわせる種になるから、というわけでなく、彼らにはなにもいうことがなかったのだ。親兄弟はすでにないし、泥のかおりがなぜ不快なのかも理解できない。いや、理解できないこともなかった。泥のかおりをほんとうに嫌って、ではなく、嫌うことがあらまほし風潮があるからだろう、と。ただ、そういう態度がまた、まわりから小面憎くおもわれるゆえんでもあったろうけれど。

 それらは分けて、べつのことのようにひとの口の端にのぼっているものの、はたしてべつのことなのだろうか、とリウはぼんやりおもうことがある。なにかしら繋がった出来事なのではなかろうか。

 そんななかということもあってなおさら、きょうもこうして会えてよかった、と不思議でもあり、しみじみうれしくもなる。ニジは屋敷内で邪険にあつかわれるだろうこと、さらにリウにまでなにかしら害が加わるだろうことをわかっているのかいないのか、昼間は姿をみせることなく、日が暮れてリウの手があいたときにだけあらわれるようになっていた。どこでどう過ごしているのか、リウがやるわずかな菜のほかになにかしら食べるものを得ているのか皆目見当もつかない。ひたすら可憐でかわいらしくしか見えないが、実は逞しく賢いのかもしれないなとおもうようになっている。特段理由もなく命名したものだったが、その名をもつ神使にあやかることになっているのかもしれない。そうおもうと、より愛おしさがますのだった。

 ニジとの出会いは昨年末のことだった。うっすり雪のつもるなか、ニーニーとか細い鳴き声がした。そんななかでも染め糸をしていたリウがみつけたものだった。ここでのリウの唯一の心のやすらぎとなるものがその当時には染め糸しかなく、それはやすらぎだけでなく奉公するための助けともなっていた。

 ニーニー鳴くものはちいさい黒い毛玉のようで、ススマロゲかと一瞬おもった。ススマロゲとはリウの郷里につたわる物の怪で、炭カスがまるまったような姿で部屋の隅などにあらわれるというものだった。とくに悪さをするでもなく、そう姿をみせることもなく、まただれにでもみえるものでもないらしく、そんなもんいねぇという者もいた。リウは数回それらしい姿をみたことはあったが。陽炎のように、ふっと現れ、ふっと消えてゆくところを。特段恐ろしさもなく、幼心にそういうものだろうくらいにしかおもわなかったものだった。

 か細くさりながら必死なようすで鳴くススマロゲ状の生き物をリウは迷うことなく懐にいれた。フクにはなすと、案外すんなりと、

「ええんちゃう。あてらに迷惑かけへんならな。カジュが世話するんやろ」

 フクのほかの下働き仲間からも格段なにもいわれずにすんだ。色ごとや賭け事、酒や下卑た噂話のほかにはとんと関心のない連中だったからかもしれない。ほっとはしたが、育むのには苦慮したものだった。がそれは通常の仔猫ほどであったかどうかは、リウには判断がつかない。いままで育てたこともともに暮らしたこともなかったため。ために半年もしないうちにするりとリウの庇護から抜け出し、いまのように自由にゆききするようになったことがはたして特殊であるのかどうかわからない。キユなどは、化け猫かなんかやないのなどとうす気味悪がっていたものだったが。それというのも、それこそススマロゲのようにいつの間にかあらわれたり、消えたりするからのようだった。もっとも猫というものはそうみえる傾向はあるし、リウのほかの者のまえにはめったに姿をみせることがなかったせいかもしれない。

 染め糸をするとき、ニジとともにいるとき、そんなときだけリウはわらべ歌を小声でとなえた。


ごっちゃなわらす、玉もてではる


ひんのわらすはくれえ玉


すいのわらすはしれえ玉


玉こばはこぶはおっがねぇ



おっがねぇかみくだきもするニジの神



 郷里で母親から教えられたことに、染め糸とわらべ歌があった。ジュデの樹を中庭にみつけたとき、リウは家族にあったようにうれしかった。奉公はじめでなにもろくにできないなか、厄介者あつかいされ居場所がないなかであったのでひとしおで、そんな気の弱いまだ幼いリウながらジュデ染めをしたいと申し出、ゆるされ、それなりではあったがわずかとはいえリウのいられる場所を得られることができたのだった。ジュデ染めは都では珍しく巷間にはなかなかでまわらない。ジュデ自体は都にもあったのだったが、手間がかかる上、なかなかうまく染めつけられないもののようで、リウのようにむらなく鮮やかな赤むらさきに仕上げられるものは都では皆無のようだった。かといって、リウの立場ではそれをもって世にでることもかなわず、主も出そうとはせずむしろ秘するまでにし、どうやらその糸で織った布を上官などに陰でわたすなどして待遇を潤しているらしかった。リウはくわしいことは知らないし、それで不満をいだくこともなかった。それがあってだろう、小屋の片隅のわずかな空間ではあったが、リウだけの室をあてがわれていたし、下働き仲間から罵倒や嘲りはあっても、打擲されることはなくなっていた。それもあってだろう、ニジを守ることができた、という面もあったのだから。

 そのわらべ歌は、リウは後から気がついたことだが、やんごとなき方々を歌ったもののようだった。そしてやんごとなきものであるという証となる玉をもたらしも砕きもする存在というのが、ニジという神のことらしい。ニジという神はもたらすものであって、ニジが生み出したりつくり成すものではなく、それはべつにあるようで、ニジは神使ということらしかった。鋭い牙をもつ剛健な神らしい。リウはとくになにか考えたわけではなかったが、ちいさなちいさなはかなげな生命をみ、ふれたとき、鋭い牙をもつ剛健な神にあれかしとどこかで願ったものかもしれなかった。そして願いがあったとすれば、その願いは聞き届けられたのだった。

 「おい、リウ、お呼びや」

 月あかりにきらめく毛並みをなでいると、声がかかった。老爺だった。呼び出しで彼にいわれることははじめてだった。くるときはいつもキユがくる。意地悪気に色黒の顔をゆがめて笑いながら。いい気味だと口にしなくてもよくわかる表情で。呼び出す者はいつもとちがいはするが、またフクから叱責されるのだろうかと心底溜息をつく。こころ当たりはなかったが、仮に落ち度がなくとも怒鳴りつけられるのは茶飯事であった。

 「そっちやない。こっちや」

 フクらのところに向かおうとしたリウは、老爺からべつの方向を顎でしめされた。母屋のほうに。主らの居るところだ。

 え、なんのために。意想外のことに驚き老爺の顔をみる。冗談かからかうつもりか、なにか勘違いでもしているのだろうか、と。皺に覆われた面にも、たれた瞼に隠れた目からもなんの表情も読みとれない。少なくともからかうだとか間違いだとかではないことはわかる。また、そもそも彼が他人をからかったり、軽口をたたくところを、リウは一度も目にしたことはなかった。ゆえにみなから“だんまりさん”と呼ばれている。

 だんまりさんは、戸惑っているリウについてくるように言い、主らの寝所へむかった。ついてゆきながらリウは今さらながら気がついたことがある。

 だんまりさんからは、一度たりともカジュと呼ばれたことがないことに。

 

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