みずのささやき、ひのしらべ

佐々木広治

第1話 奴婢リウ

 ごっちゃなわらす、玉もてではる


 ひんのわらすはくれえ玉


 すいのわらすはしれえ玉


 小声でうたいながら、リウは、たらいいっぱいにジュデの実を潰し煮出した赤むらさきいろの汁に漬けてあった糸の束を、となりの無色の水をはったたらいにうつしてゆく。そこにはミョウバンがとかしこんである。そこに一晩漬けおくことで色止めになり、いまできる作業としてはこれで終わる。

「カジュなにグズグズしてる。はよ来んかい」

 女の胴間声がし、うたれたようにリウはびくっとふるえ、

「はい、ただいま」

 彼にしては精いっぱい声を張り上げーーといってもそう大きくもないかすれたものであったがーー、前掛けで手を拭いながら駆けあしで厨へむかう。その指先はジュデでむらさきいろに染まり、刺青のようにとれなくなっている。

 リウはその屋敷の奴婢仲間からカジュと呼ばれている。カジュとは子鹿の俗称であり、男娼だとかそれにおぼしきひとを指すことばで、男性を貶す名称のひとつだった。

 リウは男娼をしたことがない、また恋をしたこともない。立場として主人から慰み者にされたことがあったが、リウの痩せほそった肉体とやりなれぬ、というか初めての行為に主人の物をうけいれることがかなわず、それを補うだけの技能もあろうはずもなく、その一度だけで夜とぎの相手はさせられずにすむようになっていた。

 そのことを指して嘲られているわけではないとはリウは頭ではわかっていた。そのようなことは若い奴婢では当たり前にあったことではあったし、罵倒したり侮ったりする通称を、なにか思慮の上でつかう者などまずいない。それは貴賎に問わずであろうし、奴婢であればなおさら。いちいち気にするほうがおかしい。

 そうわかっていながらも、リウはその名称に慣れることはできず、そう呼ばれるたびに茶がかった瞳が翳る。つまりひとの間にいるときは常に翳っていた、ということになる。その蔑称だから、でもなかろうが。

「ほら、早う竃の火みぃ」

 その屋敷の奴婢の頭であるフクが赤ら顔を汗で光らせ、ずんぐり太い腕を忙しなくうごかしながらいう。頭といってもさほど身分も高くもない官吏の内であるためそう数はなく、厨に関わるものは、フクとリウのほかに、まだ小娘の色の黒いキユがいるだけだったが。

 屋敷の主は正妻と妾を1人ずつもち、正妻にはリウに近い年齢の15.6の娘が1人。妾には5歳になる息子が1人あった。その他に奴婢が数人いるなかでの飯の準備は、厨の者が3人いてそう手間のかかることでもなさそうではあったが、主というのが大食漢で、また、その娘や息子が偏食ということもあり、ひとつですむところ、3つも4つも作らなければならず、毎度大わらわだった。別の見方をすれば、身分のわりには実入りのよい主人という言い方もできた。

 ようよう膳が整った。膳を運ぶのは雑務にたずさわる老爺だったが、ひとりで運ぶのは大変なため、食卓の間の前までは厨の者も手伝う。それは主にリウの仕事になっていた。フクもキユもやりはしない。キユはここにきて2年になるのだが、まわりに同調しすでにリウを小馬鹿にするようになっていて、それでいながら小賢しくフクにとりいり油を売るようになっていた。

 リウの方が4年ほど先輩であり、年齢も4歳上で、今年で16歳になるのだったが。やはりおもしろくなくはあったが、例の名称ほどには気にならなかった。

「いやや、いやや」

「困ったことやな」

「なにを困ることあるんですか。娘が大事やないんですか」

 泣きをふくむ小娘の鼻にかかった声と、困惑したような主人の声と、主人を叱責するような疳高い正妻の声が戸の内から聞こえてきた。よく繰り広げられる諍いのようだったが、いつもとはまた様子がちがうようだとリウはなにとはなしにかんじた。いずれにせよ自分には関わりのないはなしだとおもい、膳をおくと厨へもどった。

 リウは、夢にもおもいはしなかった。それが自身に大きな関わりをもち、自身の運命を大きくかえてゆくことになろうなどとは。



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