営みはなくとも
北野椿
第1話
肌に触れたその柔らかさで、次に続く言葉がわかった。「ごめん」と言って夫は私の隣に横たわる。私たち夫婦はまたできなかったのだ。清潔な白いふかふかのベッドからは、めったに泊まらない高級ホテルの天井が見える。垂れ下がった小さなシャンデリアは、窓から届く夜景の光をほんの少しだけ吸い取っては放っている。窓は防音も兼ねているのか、部屋は恐ろしく静かだった。
寝返りを打うつと、夫の背中が見えた。結婚する前よりも、肉がついて丸くなっているその背中にそっと手を回す。ぎゅっと握り返してくれた。応えるように、私は夫の背中を抱き寄せる。胸をなでおろす。よかった、きっと私たち夫婦はこれまでと何も変わらない。それだけではない、私はできなかったことにもほっとしていた。私にとってセックスは、ただ煩わしいものでしかなかった。
恋人は、手をつないで、キスをして、そしてセックスをするものである。当然とされるその順番を知ったのは中学生で、直面することになったのは大学生だった。社会人になって夫と結婚するまでに、何人かと付き合ったけれど、最後の一つだけはどうしても好きになれなかった。はじめはそうしなければいけないと思い込んでいて、次第に相手の気持ちに応えるためにするようになっていた。夫婦となって、これから繰り返されるであろう作業に気が重くなったこともあったけれど、不思議なことに私たち夫婦が仲を深めるほど、夫婦の営みは減っていった。
「子供は欲しい?」
ある日、夫が飲み会で酔って帰って私に聞いた。私たちは、もう一年もしていなかった。素面では、聞く勇気がなかったのかもしれない。
「どっちでもいい」
私の正直な気持ちだった。子供がいたら、家族がもう一人増えたら、きっと今からは想像できない楽しいことがたくさん待っているとは思う。けれど、私や夫はそれぞれ熱中できる趣味も持っていて、それに費やすならば時間はいくらあっても足りないようにも思えた。
夫が私の言葉をどう受け取ったのか、その日から時折、私たちは夫婦の営みを試みるようになった。お酒で寄っていたせいかと思った最初の失敗が、どうやら違うらしいと気づいたのは、三度目の事だっただろうか。どっちでもいいと答えたからか、妊娠を見据えた通院の話は出てこなかったものの、場所を変えると気分も変わるかもしれないと、併設のレストランがおいしいこのホテルに少し奮発して宿泊をしたのが今日のことだ。
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