第62話

 妾はラセツと名乗っておるが、元は名もなき魔獣であった。ふふ……まあ、人の子も名を持って生まれてくる訳ではないであろうが、の。そういう意味では妾も人と同じ。

 そう、妾のこの名も父から……愛しいととさまから授かったものじゃ。

 

 妾が妾として自分を認識した頃、己が精霊鬼という魔獣で、人間とは喰らうべき獲物であるということを自然の摂理として既に把握していた。どことも知れぬ山奥で、自分以外に同胞がいるのかいないのかもわからぬ中、なぜかそれは確かじゃった。

 しかし……、その時妾は童に過ぎず弱くて人間を狩るには及ばんかった。

 ……そもそも、喰らうといっても人や獣の血肉を口にするということではないのじゃ。精霊鬼はその名が示すように精霊にも近い存在であり、生物が体内に保有する魔力のなかの中心にある一部分――いわゆる生気と呼ばれるものを啜ることで食事とする。未熟な精霊鬼は牙を突き立てねばうまく生気を奪えない故に、それを見た過去の人間の誰かが鬼は人の血肉を喰らうという話を脚色しつつ広めたのであろうな。

 

 人間よりも弱かった頃の、自意識が芽生えたばかりの妾は主に植物にかじり付くことで僅かばかりの栄養を得て、鬼というより仙人のような生き方をしておった。しかし何年かそうして過ごすうちに、妾としてはその方が良いような気もしてきたことによって、食の好みというものが固定されたのじゃな。

 

 さらにいえば、つい最近封印から目覚めた直後に口にした人の料理というものが、さらに妾の中で革新を起こす。植物や獣や魚でも何でも切り刻んでごちゃ混ぜにしたようなあれらが、妾に“美味”というものを教えた。

 何せ、生気を啜るだけのつもりが、思わず飲み込んで、人間のように食事することまで覚えてしもうたくらいなのじゃ。

 

 たった一人の例外を除いて、植物の生気しか食事としてこなかった妾が、今ではすっかりアルの奴から「食いしん坊鬼」などと馬鹿にされる始末ですらある。まあ妾に美味を提供するあの者らであれば、ある程度の無礼は見逃してやるがのう。

 

 それはそうと、アルの奴にはそれ以外でも興味が湧いた。手合わせをしたあの日、あれはつまり試験であって、妾がアルにとって有用かどうかを確かめようとしておったことなどわかっておった。

 その上で、いわゆる食い扶持というものを確保するために人間風情と遊んでやろうというだけのつもりじゃったのだが……。

 最後の最後、アルの奴が妾の手を蹴り上げたあれは……まるで、ととさまの……。

 

 人間というものが妾と比べて一瞬で死ぬ生き物であることは知っておる。封印されていた期間がどれほどなのかは定かではないが、“人間”であったととさまが生きておるはずもないことは頭ではわかっている。

 だけど、だけど妾は……最後の瞬間にととさまが言った言葉を……「そこで待ってろ」というあの言葉を、気休めの嘘だとは思いたくないのじゃ。

 

 ととさまの技を未熟ながら扱えるアルは、何らかの形でととさまの痕跡を受け継ぐ者なのやも知れぬ。思えば、顔形や背丈のほども似ているようにも思えてくる。

 ……いや、それは思い込みか。ととさまのことは、長き封印の果てに顔すらはっきりとせぬのだから。おぼろげな記憶にある妾をかばって戦うあの姿を、今身近にある誰かに重ねたくなるという、妾の弱さの発露じゃな、きっと。

 

 

 

 「あれ……? グスタフ様なの」

 

 と、曖昧な記憶の底に沈んでいた妾の思考は、隣から聞こえてきた可愛らしい声によって引き戻される。

 

 「どういうこと?」

 

 ライラが不思議そうにしておる。

 

 「確かに、こちらへ走ってきておるようじゃの」

 

 らしくなくどたどたと走りよるものじゃから、距離があっても妾にもわかった。

 本来であれば、このサイラが精霊鬼である妾よりも当たり前のように気配察知に長けておることが異常なのじゃが……。まあアルの奴も解析がどうのという力で尋常ではない察知力をしておったからの、こやつらの異常性を訝しんでも仕方があるまい。

 そしてそのように焦りを隠せずに走ってきたグスタフの言葉が、妾からゆっくりと考え事をする暇を奪っていくことになる。

 

 「アル君がっ! いなくなったんだっ!」

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