書架の並び

ナツメ

書架の並び

 書肆しょし憂月堂ゆうげつどうの主人は四十路に差し掛かった女で、名を憂子ゆうこという。憂子は妹とともに店を営んでいる。もっとも、妹はもっぱら店番で、どの本を仕入れ、それを誰に売るのか、全てを取り仕切っているのは姉の憂子であった。

 憂子にとってこの店は、この世で唯一、自分の思い通りにできる場所だった。カーテンの色も、置いている蓄音機やかける音楽も、勿論書架の並びも。憂子は幼い頃から本が好きだった。古い人間である祖父は女の憂子が読書に没頭するのを快く思っていなかったが、両親は寛容で、頻繁にとはいかないが時折憂子に本を買い与えた。そうして自由な時間をすべて読書に費やし、できるだけ沢山の本を読んでいくうち、憂子はその中に独自の法則を見出した。主題の共通、筆致の類似。それ以外にもはっきりとは言葉に出来ないような独特の感覚で、憂子は本というものを見ていた。


 ガララ、と戸の開く音がした。憂子は読んでいた『マクベス』から目を上げて、店の入口の方を見遣った。

 まず目に入ったのは、まばらに白い頭だった。丁度帽子を取ったところで頭頂部がこちらに向いていた。顔を上げたその客は大分だいぶんと皺の入った顔をしていて、意地悪そうに下がった口の端が、憂子の祖父に似ていた。厭だな、と憂子は思った。

 客は戸を半開きにしたまま店の中に入ってきて、並ぶ本をきょろきょろと眺めている。顔を左右に振る仕草がせわしない。

 しばらくそうして店の中を彷徨うろついたかと思えば、「何だこの店は」と呟いた。

「おい」

 如何いかにも粗暴なその声は、酒焼けでもしているのか、がさがさと枯れていた。

「はい、どうなさいました」

 帳場から出て、憂子は作り笑顔を浮かべる。

「女じゃ話にならん。店主を出せ」

わたくしが店主で御座います」

 憂子がそう言って、客は初めて憂子の顔を見た。そして頭の先から爪先まで、舐めるように視線を這わせ、ふん、と鼻でわらった。

「どうなってるんだ、この店は。陳列がなっとらん。出版社も作者も揃えんで、並びがぐちゃぐちゃじゃないか」

 ――憂子、お前はまたこんなにぐちゃぐちゃに本を並べて。

「……申し訳御座いません。うちはそういう店ですので」

 ――ちがうの、おじいさま。ぐちゃぐちゃじゃないの。

だと? 謝りもせず客にその態度か。それでよく店主が務まるもんだ」

 ――だからわしは言ったんだ、女に本など与えるなと。どうせろくすっぽ読めちゃいないんだ。

「……昔、お客様と似たようなことを言う人がいました。私の本の並べ方がぐちゃぐちゃだと」

 ――わたしちゃんと読んでるもの。読んで、ちゃんと並べてるもの。

「そりゃそうだ。皆私と同じように思うだろう。前にも言われているのに直さないとはとんでもない店だな」

 ――五月蝿うるさい、嘘を吐くんじゃない。そんなにぐちゃぐちゃがいいならお前の好きな本も全部ぐちゃぐちゃにしてやろう。

非道ひどい人でした。私の本を全部破いてしまったのです」

 ――やめて! おじいさま御免なさい! 憂子が悪かったのです! 御免なさい! 御免なさい!

「それは……」

 ――泣くな、みっともない。お前は女のくせに本など読んで只でさえ頭がおかしいのに、おまけに性格まで悪いと来ている。儂の孫とは思いたくもない。

「そして破り捨てた本に火を着けて、そんなに大事なら拾って集めろと言ったのです」

 ――やめて、ごめんなさい、おじいさま、いやだ、ごめんなさい、ごめんなさい。

「……」

 ――謝っていないて拾ったらどうだ。早くしないと燃え尽きてしまうぞ。

「これが、その時の火傷の跡です」

 憂子は袖をまくって見せた。真白い腕の内側はケロイド状になり、皮膚が引き攣れている。

 客はしばらく黙ってそれを見詰めていた。白髪の顳顬こめかみからつう、と汗が流れ落ちるのを、憂子は薄い笑みを唇に貼り付けたまま眺めていた。

 やがて、客は絞り出すように言った。

「……それで、その客のことはどうしたんだい」

 掠れきって、殆ど聞き取れないような声だった。

 憂子は老人の怯えきった表情を見て、今度は自然と微笑んだ。


「だから、私はその人のことを、ぐちゃぐちゃにしてあげましたよ」




「姉さん! ちょっと、大丈夫?」

 妹の月子つきこの声で、憂子はふと我に返った。

「月ちゃん、貴女いつ帰ったの」

「ついさっきよ。もう七時も回ってるのに店の戸が開いているし、姉さんはぼうっとしちゃって返事しないし」

「そう……御免なさい、疲れてるのかしらね」

「店は閉めといたから、早くお夕飯食べましょうよ」

 月子はそう言ってそそくさと居間に上がっていった。憂子も読みさしで膝に置いていた『マクベス』を手にそれに続く。

「ああ、そういえばあのじいさんから手紙来てたけど」

 と月子が見せた封筒には、二人の祖父の名前が記されている。

「読まないわよ」

「知ってる。私も読まない。しかしあのじいさん、いつまで元気でいるつもりかしら」

 渋柿の長持ちってこのことね、と言って、月子は封筒をぐちゃりと握り潰した。

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