4章
■27 北ラコテの大沼
コナドの街は、四方を山に囲まれた盆地に建てられた街だ。
どの方向も若干山からは離れているが、特に南側は広い草原となっていて、伯爵が所有する馬や羊が飼われている場所もある。山がちなモンテ領においては貴重な平地だ。
その、南側の平原。
朝の光が草を濡らす朝露を煌めかせる中に、四人の姿があった。
マティアスとフォルカ。その護衛として、コーエンとノーマ。乗ってきた四頭の馬がそばに控えていた。
遠く、コナドの街を囲む市壁の上には多くの人影が見える。マティアスが触れを出し、避難に懐疑的な市民に見守らせているのだ。
街の逆側、北の門からは、隣領を目指して避難が始まっている。
「さて、【物語】を相手に回しての
「伯爵、もう少々危機感を覚えて頂きたい。貴方が矢面に立つ必要はありますまい」
「全くだ。トチったら死ぬような舞台にしゃしゃり出てくるんじゃねえよ、出たがりの新人か」
まるで緊張する様子もなく、この期に及んで楽しげな貴族へ、心配と非難の視線が突き刺さる。が、どこ吹く風だ。
「はっはっは。領民、領地の危機に、私だけ座っているわけにはいかんよ」
「言葉だけ聞くと立派なのですが……。こほん。シュトゥからコンタクトはありましたか?」
「いいや、手紙ひとつもない。監視はされているだろうから、この時間、この場所は伝わっていると思うが。それに、本を燃やす手はずを整えていることも」
応えるように、遠吠えが響いた。
ノーマの虎の耳が鋭敏に震えて、声の方向を探る。マティアスが両手で耳を塞ぐ仕草をするが、決して大袈裟ではない程の迫力だった。
ほどなく、南側の森から、黒い狼が姿を現す。
草原を駆け抜ける黒狼は、しなやかに全身を律動させる。草を蹴立てる動きは力感に満ちていた。
美しい。ノーマは場違いにも、そんな感情を抱く。
馬よりも速い疾駆すら、おそらくは黒狼にとっては抑えた動きだった。背に小さな少女を載せていたからだ。少女は毛並みにしがみつき、楽しそうに笑っていた。
四人から少し離れた場所に黒狼が止まる。しがみついた背から顔を上げて、少女、シュトゥが声を降らせた。
「こんにちは、伯爵さま。司書さん。ご本を渡してくれるのね?」
「もちろん、私にとって最も大切なのは領民たちだからね。だが……」
伯爵の手には、布をまとった木箱が乗っている。そっと差し出しながら、視線はシュトゥを観察する。
「だが、なぁに?」
「保証が欲しい。これ以上殺さないという証だ。渡した途端、皆殺し、では困るからね」
「ふふっ」
シュトゥは、いかにもおかしい冗談を聞いたというように、笑う。
黒狼の背の毛並みを愛しげに撫でながら答えた。
「伯爵さま。これは、取引ではないの。強いて言うなら、そうね……『お話』だわ」
お話、という言葉の響きが気に入ったのだろうか。胸に手を当てた少女は、お芝居めいた声と表情で続ける。
フォルカが一歩下がったのを見とがめたのは、黒狼だけだ。
「大切なものを守るために、大切なものを差し出す。そういうお話、あるでしょう?」
「なるほど。そして、おとぎ話の登場人物は、まさに物語にこそ忠実である、というわけだ」
「ええ。だから、私はどっちでもいいの。探すのが面倒だからお願いしただけで……本を受け取ってから殺すか、殺してから本を探すか、その違いしかないもの」
無邪気な笑い方。そっと持ち上げられた手、指先がフォルカを指す。
「食べちゃえ。本はかじらないでね」
「ははは、バレていたかね!」
伯爵が持つ、いかにもな木箱は、完全に無視されたかたちだ。その木箱を地面へと落とし、慌てて背後へ下がる。コーエンが伯爵を掴んで更に下がらせた。
次の瞬間、三つの動きが、同時に起こった。
巨大な身体を躍動させ、前足の爪を奔らせた黒狼。
一歩下がった位置で、三つのダイスを地面に押し付けたフォルカ。
伯爵が落とした木箱から、一気に広がる、胡椒とスパイスの煙。
『ッギャウゥ!!??』
「〈泥沼〉!」
煙に包まれて、黒狼が悲鳴を上げる。その隙にフォルカが叫び、魔術を行使した。二つのダイスは『六』『一』の面を輝かせる。
だが、ダイスは二つだけではなかった。草むらの中に配置され、フォルカの魔力を通しやすい泥土の線で結ばれたダイスがさらに二つ、輝く。合計四つのダイスは、黒狼とシュトゥが立つ地面の広い範囲を、一気に深い沼へと変えた。
必殺の罠だ。代償に、フォルカが膝をつく。ダイスの力は人間の可能性の力……身の丈に合わぬ投射を試みれば、すべての可能性を失って消滅することもあり得た。
だが、魔術は成った。フォルカの意を受けた泥は、黒狼に絡みついて沈めようとする。〈待ち人オオカミ〉の時と同じように、泥に沈めて封じる手だ。
シュトゥもまた、泥に沈みかけている。白いワンピースに泥を跳ねさせて、きゃ、とかわいらしい声を上げた。
「そのまま沈めちまえ!」
膝をついたフォルカを、ノーマが掬い上げるように立たせて、馬へ走る。誰かが泥に巻き込まれたら、ノーマが担いだ〈沼裂きの櫂〉で救い出す予定だったが、その必要はなくなった。馬を全力で走らせてその場を離れる。
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