■26 終末抄


 コナドの街からの避難は、順調とはいかなかった。


 当然のことだ。『生まれ育った街を出て逃げろ』と言われたところで、素直に従う者は少ない。

 だから、領主マティアスは、住民に避難の準備だけは進めさせた。


 文官が走り回り、怪物が街を狙っていることを伝える文書を配る。文字が読めない者が多い区画では、広場に高札を立てて、若者を雇い叫ばせる。

 幸いにして〈待ち人オオカミ〉を討ってから、新たな【物語】が都市内で騒ぎを起こすことはなかった。


「今のところ、受け入れは半々といったところだ。混乱に陥っていないのは、流石が我らがコナドの街の住民といっていいだろう」


 自画自賛というべきか。領主、マティアスの自慢げな言葉が響いた。

 定時報告の場となっている、朝の執務室だ。


「混乱して逃げ出したほうがマシな事態にならなけりゃいいが」

「そうならぬために努めているのだ」

「騎士様は怒鳴りつければいいから楽な仕事だな」


 視線を合わせることもなく、ノーマとコーエンが言葉を交わす。それを見て、フォルカはおろおろと、マティアスは楽しげだ。


「ええと、避難先はどこへ?」

「隣の子爵領へ。子爵どのには賭けの勝ちがそれなりに残っていてね。いやはや、徳は積んでおくものだ」

「騎士団による隣領への進路確保も、ほぼ完了しております」

「よろしい。……フォルカくん、ノーマくん。この後時間はあるかね」

「はい」

「次は何の難題だ?」


 マティアスは立ち上がり、机から古めかしい鍵を取り出す。手のひらに余る大きさの、鉄の鍵だ。


「神話の本を、見せようではないか」



 本は、日光を嫌う。

 写本士や書籍商が月の三女神レイテアを信仰するのは、そういった理由もあるのだろう。

 伯爵の執務室の奥には細い階段があり、降りた先は小さな地下室になっていた。

 石造りの地下室には淀んだ空気が溜まっている。ノーマが居心地悪そうに尻尾を揺らす。


「昨夜、護送準備が完了したのでね。固定してしまうとしばらく外せないから、必要な情報はこの場で読み取って欲しい」

「わかりました」


 狭い地下室の中心。石と木を組み合わせた書見台に、一冊の本が鎮座していた。黒い木製の表紙に、古びた色合いのページが、紐で綴じ合わされている。厚みはさほどなく、せいぜい数十ページというところだ。

 ノーマの居心地悪さとは逆に、フォルカは本を楽しみにしている様子が隠せていない。隠そうとしているせいでそわそわと落ち着きがなくなっているから、余計わかりやすかった。眼鏡がきらめいて見えたのは、果たしてノーマの錯覚だったか。

 司書服の懐から取り出したハンカチで指先を拭い、黒い表紙に触れる。丁寧に、開いた。


「……これが、『終末抄』。世界の終わりを描いた、神話……」


 フォルカが呟き、丁寧に、慎重に、だが迅速にページを捲る。

 手持ち無沙汰になったノーマは、隣で真剣な表情をしているマティアスへと声を掛けた。


「で、何が書いてるんだ、アレには」

「そうか、君は字が読めないのだったね。良い書字教室を紹介しようか」

「要らねえよ。『文字を書くのは聖職者と商人、いずれも嘘つき』だ」

「ほう。古典に詳しいようだ」

「座長が好きでな。で?」

「うむ。あの『終末抄』には……」




 空は暗雲に覆われ、太陽の神の恵みはとうに届かない。

 海もまた波は止まって黒々とし、海鳥も、魚も、消え去った。

 太陽の代わりに天に輝くのは、赤の光だ。それは紅玉だ。それは瞳だ。喰うべきものがどこかに残っていないか見定めている。

 空は終わった。海も終わった。大地も、もうすぐ終わる。


 終わりの使者は、獣だ。

 獣の群れ。無限。彼らは全てを喰らいつくす。

 彼らは魔にして邪なるものか?

 それすら不明瞭で、無意味な問いだ。

 彼らは終末の意思だ。終末そのものだ。

 触れたものを喰らう。見たものを喰らう。嗅ぎ付けたものを喰らう。

 全てを喰って、何も残さぬ、貪欲にして無慈悲な終わり。

 

 終焉をもたらす、貪食の獣。



 『終末抄』を読み終えたフォルカは、運搬用の木箱に書物を安置し、マティアスとノーマで木箱を固定した。打ち付けられた釘と、箱を締め付ける革のベルトは、落とした程度ではびくともしないだろう。【物語】に対する備えとしては脆弱に過ぎたが。


「こいつの使い道は決まったのか?」

「本来ならば、全力で守るべきですが……」


 マティアスは首を横に振る。


「無論、それが理想だ。だが、残念ながら我々の手札は限られている。無償で差し出すわけにはいかないが、賭けに出る必要はあるだろう」

「賭け、ねえ」

「はい。この本は、囮にします」


 フォルカが力の籠もった声で言う。嫌だ、と思っているのがよく分かる、苦渋が滲む声だ。

「シュトゥがこの本を狙っているなら、囮に……あるいは人質にして、街の人を逃がす。それが大まかな方向性ですね」

「狙ってるってのは本当なんだろうな?」

「わかりません。ただ、この街で最も希少で危険な品物は、この本です」

「おそらくは、こうして我々が『終末抄』を動かすことが目的なのだろう。探し出せないほど隠してしまわれないように、と」

「やっぱり燃やしちまった方が後腐れが……わかったよ、睨むなフォルカ」

「睨んでいません」


 フォルカが木箱を抱え、革の鞄に入れる。


「では、相談した通り、これは私が確保します」

「頼んだよ、フォルカくん」


 事前に取り決めていたことだ。

 関係者の中で最も強いのは間違いなく騎士団長コーエンだ。だが、彼には騎士として走り回る役目がある。万が一【物語】が現れた時の対処も含めて、フォルカが本を担ぐことになっていた。

 フォルカが動けなくなった場合、次は護衛役であるノーマが持つことになる。


(……ま、その時には俺も死んでるだろうけどな)


 【物語】を相手にするためには、司書が必要だ。優先順位から言って、先に死ぬのはノーマだ。


(死ぬ気はさらさらないが――)


 鞄を重そうに担ぐフォルカを見つめて、ノーマは思う。


(幕が降りるまでは、付き合うことになりそうだ)


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