■16 決意
ノーマとフォルカは、一旦執務室を出て、あてがわれた客間へと戻っていた。
『終末抄』に関しての判断は一旦保留し、休息を取ることになった。夜通し森を駆けてきた二人を気遣ったマティアスが、食事を用意しようと提案したのだ。
『君たちには朝食が、私には温かいコーヒーが必要なようだ』
などと、口ひげを弄って嘯く口調は芝居めいてはいたが、容易ならざる事態に思考の時間を取る必要があるのは本音だっただろう。
椅子に深く座り、温かなスープを含むと、二人の体に強く疲れがのしかかってきた。
野菜の端切れが良く煮込まれたスープは、ほんのりと甘い。冷えた夜の空気の中を走ってきた身体を、内側からじわりと温める。
言葉はない。かちゃり、と、食器が触れ合う微かな音が、しばし響いた。
「……ん」
「メアリ! おい、メアリ。大丈夫か?」
ベッドに寝かされたメアリが、身じろぎし、小さく声を漏らした。ノーマの虎の耳がぴくりと動き、ベッドへと駆け寄る。血で汚れた服はすでに着替えさせられて、清潔な白いチュニックを着た少女が、徐々に覚醒に向かってきていた。身体の無意識の動きが、徐々に大きく、意思があるものになっていく。
「ん……ノーマ……? シエラ……?」
声はひどく掠れていた。叫び声で、全ての声を使い果たしてしまったかのようだった。
「ああ、俺だ。ノーマだ。わかるか、メアリ?」
「うん……、ここ、どこ……? わたし……」
「医師を呼んできますね!」
「頼む。……メアリ、気にしなくていい。もう少し休め」
弱々しく伸ばされた少女の手を、ノーマが強く握る。いたいよ、と小さくメアリが笑った。
「すごく……こわい夢を、みた、の」
「ああ。大丈夫だ。もう、大丈夫だから」
「うん……。ノーマが、いれば、だいじょうぶ、だね……」
慌ただしく戻ってきたフォルカと、少女の手を握り締めたノーマが見守る中、メアリは微笑んだ。
その瞳から、ぽろぽろと、涙が溢れて止まらない。
「ねえ、シエラは? ……夢、の中でね、シエラが守ってくれ、たんだ。お礼……言わなきゃ……ね……?」
あどけない少女の問いに、二人は答えられない。やがて涙に嗚咽が加わり、メアリは身を丸めて、泣く。
医師が部屋に入ってきて、改めて診察を始めてもなお、涙は止まることはなかった。
「おい、フォルカ」
「はい」
診察の邪魔にならぬよう部屋の外に出て、扉を守るように立ち、ノーマは声を上げた。
その声には、熱がこもっている。決して明るくはなく、押し殺されて、だが確かに燻る熱が。
隣で、フォルカが頷く。眼鏡を少し整えた。
「あのシュトゥとかいうガキがいる限り、この街は危険だ。逃げ出そうにも、山には化け物が溢れてる」
「その通りです。何らかの手段で、【物語】を呼び出しているか、集めているのは間違いありません」
「だが、神話とやらの本を渡すのも危険なんだろう?」
「はい。渡して、ありがとう、と逃してくれるとは思えません。それに、万が一【神話】を呼び出されたら、街どころか世界全てが危険です」
「なら決まりだ」
ノーマの腰で、虎の尻尾が、ゆらりと揺れる。
「あのガキは俺がぶち殺す。一座の皆の仇は取るし、ニギンとメアリを守らなきゃならねえ」
「……それを」
フォルカが、眼鏡のレンズ越しに、ノーマの横顔を見つめる。はっきりと視線を注いで、静かな言葉をかけた。
「あなたがする必要は、ありません。【物語】の相手は司書の私の仕事ですし、コーエンさんと騎士の皆さんが戦ってくれます。むしろ、戦闘の訓練を受けていないあなたは、邪魔になりかねません」
「なら、囮にでも使え」
「いいえ、ノーマさん。ニギンさんとメアリさんの傍についていてあげてください。守るというなら、それが一番、重要です」
「黙れ。お前に俺の気持ちがわか――」
「わかるわけ、ないでしょう」
言葉を遮るフォルカの声の、静かさにこそ、ノーマは口を噤まされた。
「あなたにとって、劇団の皆さんが、ニギンさんとメアリさんが、どれだけ大切か、なんて。私にわかるわけがありません。あなたにしかわからないんです。逆に、お二人にとってノーマさんがどれほど大切かも、わかっていないでしょう。あなたが好きに戦って死ぬのは結構ですが、それで残された二人はどうなります? そのあと誰が二人を守るんですか? 【物語】の犠牲者をみすみす増やした私の気持ちは? あなたにわかるんですか、ノーマさん!」
最後の一言、名を呼ぶ声だけは、ノーマの耳を強く打った。扉を越えはしない程度の声量のはずが、虎の耳が思わず震えるほどの迫力。
ふ、と一息をついて、フォルカが自らの胸を撫でる。
「……ごめんなさい。司書の務めを果たせていない私が、偉そうに。でも、すでに図書館には手紙を飛ばしました。どうか無茶をしないで、ください。……お二人を守りたいのは、私も同じです、から。どうか……」
「…………わかったよ」
驚きにか、怒りにか。ぴんと力が入っていた尻尾が垂れた。
「……別に、死にたいわけじゃない。だが尻尾を丸めて逃げるつもりも、ない。ひとまずアンタの手伝いでいい、一枚噛ませろ」
「わかりました。……熊の時には助けてもらいましたし、その、頼りにしています」
僅かに上気した頬に小さな微笑みを浮かべて、フォルカが手を差し出す。ノーマも手を伸ばし、……握らずに、軽く手のひらを叩いた。
むう、と不満げなフォルカな反応に、小さく笑う。
「それにしても、存外いい声で鳴くじゃないか」
「下卑た表現はやめてください」
互いの照れ隠しを、文官の足音が遮った。
伯爵との協議の時間だった。
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