いざという危機感

そうざ

Sense of Crisis at That Time

 黄昏時から降り出した雨は一向に止む気配がなく、ビニールシートで拵えた雨避けを事もなげに叩いては汚泥へと合流して行く。

 老人は、凍える指先に息を吹き掛けている青年に携帯カイロを差し出した。

「遠慮は要らんよ」

「……ありがとうございます」

 青年が羽織っているダウンジャケットも、あっと言う間に平らげてしまったカップ麺や缶詰めも、老人が持って来たものだった。

 雨のとばりを突くように、防災放送が断続的に現状を伝える。

「こういう事態ときに助け合うのは当然だよ」

 二人は今、谷戸やとを見下ろす丘陵の頂上に居る。眼下には、大量の海水と共に一緒くたになった船舶や車両、民家や樹木、そして無数の瓦礫が行き場を失ったまま不規則な渦を描く無機質な光景が広がっていた。


 それは、昼下がりの集落を出し抜けに襲った。大気がさざめき、山が轟き、鳥がけたたましく飛び去って行った。

 大きな揺れは一旦収まったものの、程なく防災放送が津波の到着予想時刻を叫び始めた。

 老人は寝室に駆け込み、枕元に常備してあるリュックを手早く背負った。

 老人の住居は村の奥座敷にあり、裏手の山道は丘陵の頂上まで続いている。幼い頃、村の古老から津波の時は裏手に逃げろと教えられた。老人はその通りに急いだ。野良仕事が生業なりわいだから足腰には自信がある。

 過疎の進んだ村民の大半は高齢者で、臥せっている者も少なくない。皆、素早く避難出来るだろうか。一番近い隣家でも急勾配の坂を下らなければ辿り着けない。村を廻り、皆を誘導しながら戻って来られるだろうか。

 逡巡する老人の耳に、港の方角から迫る地響きが届いた。

 ――もう来るぞ。

 老人が後ろ髪を引かれる思いで身をひるがえし掛けた時、坂の途中の人影に気付いた。

 村では見掛けない青年だった。慌てて傍らのスクーターに乗ろうとしている。

「港の方に逃げたら駄目だっ。こっちに来なさいっ」

 青年は呆然として老人を見上げたが、スクーターを捨てて直ぐに坂を駆け上がった。


 結局、老人と青年の他に山頂までやって来る者は居なかった。

 津波の際は自分の身を最優先に考えろという古老の教えを、老人は心中で反芻し続けた。

 青年は無言でスマートフォンを操作していたが、電波状況が芳しくなく、いつしか止めてしまった。

「食料は三日分くらいある。何とかなるだろう」

 老人は雨音に負けじと声を張り上げたが、青年は膝を抱えたまま微動だにしない。携帯ラジオの災害情報だけが気まずさを和らげる。

「……人間は不思議だなぁ」

 沈黙に抗するように、老人が言葉を継いだ。

「災害はいつか起きる、いつ起きてもおかしくないって頭では分かっていても、自分の身には起きないと思い込もうとする」

 青年が耳を傾けている事を感じながら、老人は話し続けた。

「災害は不意打ちで、理不尽で、人の気持ちを考えずに平然とやって来る。そんな相手に立ち向かう唯一の手段は……何だと思う?」

 青年はわずかに頭を上げたが、また項垂うなだれた。

「日頃からの危機感だよ」


 余震と雨とが続く中、青年が重い口を開けた。

「……家族って、居ますか?」

「娘夫婦と孫が居るけど、遠方で暮らしてるよ。女房を早く亡くして、いつの間にか独居老人だ」

「孫って、何歳ですか?」

「もう大学生だから……君と同じくらいじゃないかな」

 青年が次の言葉を探している。見兼ねた老人が後を引き受けた。

「友達と学生企業を始めるのに大金を借りて、それを返せなくて困ってるって、昼間に電話があってね」

「……」

「孫の友達が代わりに行くから、お金を用意して待ってるように言われてたんだけど」

「今、そのお金は……?」

「何よりも先にリュックに突っ込んだよ、孫の頼みの綱だからね」

「…………」

「村に一番近い駅からもかなり距離があるし、バス路線もないし、歩いて来るとは思えんな」

「…………」

「津波に流されてしまったかなぁ」

「……かも知れませんね」

「可哀相になぁ」

 いつの間にか小降りになっていた雨が、いよいよ止もうとしている。東の空はもう白み始めていた。

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