万華鏡の男

馬村 ありん

万華鏡の男

 男が塀を登ってきた。


 みき子は警戒したが、すぐに注意が逸れて中庭のシロツメクサの上を飛んでいくモンキチョウに見とれた。


 小夏日和の空気を泳ぐレモンイエローの昆虫は、まるで風にそよぐ小旗のようで、いつかの結婚記念に夫と訪れた倉敷チボリ公園の光景がみき子の脳裏をよぎっていった。


「あのー」


 声に意識を向けると、男が目の前にいた。太陽を背にして影を帯びた男の顔は薄気味悪く、目つきもギラギラして見えたので、みき子は怖くなりそのしわくちゃの顔をさらに歪ませた。


「おばあちゃん、僕ですぅ。久しぶりですねえ」


 笑顔をふりまきながら、男は両足をかがめ、縁側にある車椅子に座るみき子に視線を合わせた。


 みき子は男の顔をまじまじと見つめた。歳は二十歳前後。背は高く、手足は長かった。誰か分からなかった。だが、自分に親しげに話しかけてくるこの年齢の人間といえば思い当たるのはひとりだけだった。


貴一きいちなの?」


「はい」


「あれまあ、遠くからよく来た、よく来た」


 貴一が松戸から実家に帰ってきたのだ。遠くからきたもてなしに茶菓子でも出そう。みき子は立ち上がろうとするが思い通りに腰が動かなかった。


「あのー、おばあちゃん、お小遣いがほしいんですけど」


 男は言った。


 貴一の言ったことをみき子は頭の中で噛み締めた。貴一は我慢強い子で、お小遣いなどねだらなかった。となると、目の前の人物は?


「もしかして、芳樹よしきちゃんなの?」


「はい」


 男は薄笑いを顔に貼り付けたまま言った。


 芳樹は貴一が儲けた男の子だ。甘えっ子で、里帰りしてくると近所の駄菓子屋で買い物をするためによくお小遣いをねだってきた。


「かけっこ頑張った? 一等賞取れた?」


「はい」


「お小遣いあげるよぉ」


 みき子は上半身を和室の方に向けた。茶だんすの中に財布が入っている。大事なものはすべてあそこにある。通帳も、実印も、財布も。


「おばあちゃん、あそこにあるのお?」


 芳樹は外靴のまま縁台を登り、家の中に入ってきた。絨毯敷きの床を横切り、みき子が顔を向けた茶だんすへと向かった。引き出しを上から順に引いて、中を探る。


「おばあちゃーん、久しぶりだねえ」


 今度は女の声だ。振り返ると、中庭から歩いてくる人影があった。二十歳前後。両腕と太ももを露出しただらしない格好だった。女も家に入ってきた。


「ねえ、キーくん。あった、お金?」


 女が言った。


「シーッ。いま探してんだよ。お前も急いでやれよ」


「大丈夫だって。あの女の人、お手伝いさん? 自転車でどっかいなくなったし」


 にやにや笑い顔を浮かべながら、女はみき子に顔を近づけてきた。


「きたね。洗ってんのコレ」


 女はみき子のお気に入りのパイル織りのひざ掛けを指さして笑った。


 この女のずるい目つきを見ていると、みき子は恐ろしくなった。酒を飲んだときの母にそっくりだった。みき子は殴られると思い、車椅子の上で体を震わせた。その様子をみて女は愉快げにハハハと笑った。


「あった」


 引き出しの最下段にみき子のくたびれた革の財布があるのを見つけると、芳樹は札入さついれの中から一万円札一枚と千円札二枚を取り出した。


「は、これだけ? ありえないんだけど」


「ちょっと何よ、それ~」


「おばあちゃん、お金どこー? あるんでしょ、ねえ」


 声こそ猫なで声だったが、芳樹の顔は歯を剥き出していた。


 芳樹はこんな顔をしたことがあっただろうか? 芳樹は優しい子だ。この男は芳樹じゃない。では誰だ。肩を怒らせて、みき子に立ち向かってくるこの男は――?


 分厚い記憶の霧の向こうから這い出してくる影があった。それは立花たちばな兼行けんこう――嫁の父親だ。


 立花兼行が家に来た夜のことを覚えていた。貴一が妻を叩いたなどと言い張り、殴り込みに来たのだ。


「出て行け」と夫がいうと、立花は逆上し夫に掴みかかってきた。夫は張り倒され、茶だんすの角に頭をぶつけた。夫の頭からは血が溢れ、その額を糸筋を引いて垂れた。


「警察! 警察を呼んで!」


 みき子はあらん限りの声で言った。


「どうすんのよ、叫んでるわよ。あんたが怖がらせるから」


 女は慌てた様子で立花の肩を揺すった。


「糞っ」


 立花は泣き叫ぶみき子の前で膝を付き、その手を握った。


「落ち着いて。大丈夫だよ。なんにも怖いことないよー」


 手のぬくもりがみき子の両手を包んだ。それはみき子に喜びを与えた。こんな風に手を握ってきた男の名前をみき子は知っている。和人かずひと。みき子の夫だ。


「ああ……」


 みき子は最大限の力を込めて和人の手を握り返した。


 在りし日の思い出。地元のカトリック教会で、みき子と和人は挙式を上げた。みき子はドレスに、和人はタキシードに身を包んだ。拍手と笑顔が二人の門出を祝った。そこにはまだ生きていたころの父と母がいた。ふたりとも涙を流していた。それからみき子と和人は飛行機に乗り、新婚旅行先の熱海へと向かったのだった。


 みき子は思い出にふけった。その間に、一組の男女は金を掴み、中庭を出て塀を越えてどこかに消えた



「遅くなっちゃった。ただいま、おばあちゃん」


 みき子のいる部屋に入ってきた時、初絵は異変に気がついた。開け放した縁側のガラス戸、スニーカーとパンプスの足跡、引き出しが全部外された茶だんす。何が起きたか推察するのは容易だった。


「怪我はない? ごめんなさい、私すぐ戻るからと思って……」


 初絵は祖母に飛びついた。


「初絵ちゃん?」


「おばあちゃん、私が分かるの!?」


「さっきね、貴一が来てくれたんだよ。芳樹も、それから和人さんも」


 みき子はまくしたるように話した。話の大部分はわけが分からなかったが、近年には珍しいぐらいにその表情は晴れがましく、目は輝いていた。


「良かったね」


 あまりにも眩しい笑顔に、初絵はそう声を掛けるしかなかった。


 初江の通報からすぐ後、犯人は逮捕された。みき子の近所に住む男とその恋人で、ギャンブルで多額の借金を背負っていた。みき子からなら金を取れると思ったらしい。場当たり的な犯行で、これでせしめたのはわずか一万二千円だけだった。


 初絵は、あの日から度々考える。祖母は一体何者を目にしたのかと。万華鏡のような人間。


 実父である貴一、兄である芳樹、それから祖父の和人。その三人が、まるで万華鏡を覗くと現れるもののように、違う角度から見たり、それ自体が運動したりすることによって、姿を変えるのだ。


「ぐちゃぐちゃだよ、変なの」


―終―

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万華鏡の男 馬村 ありん @arinning

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