満月の誓い

『ああ、ああ、無力な娘よ。どのようにして、あのような妖魔を倒すというのだ?』


 風の精霊王の存在は、獣人族には視えない。

 だが、イステリシアの視界には、はっきりと映っていた。

 その風の精霊王が、どろの妖魔を指差す。


 泥の妖魔は、ずるり、ずるり、とゆっくり地面をいずりながら、次なる獲物を探す。


「とにかく、逃げろ! 奴の動きはにぶい。屋内に立てこももらずに、逃げろ!」


 イステリシアの護衛役だった獣人族が、鹿種の村人たちに避難の指示を飛ばす。

 鹿種の獣人族は悲鳴をあげながらも、妖魔から逃げる。

 だが、指示は耳に届いていても、逃げられない者たちが、この村には大勢存在していた。


 病気でふせせっている者たちだ。

 そして、看病していた者も、やまいの親兄弟や子や恋人を見捨てることができずに、屋内に留まっていた。


 妖魔は、屋内に閉じこもる獣人族の気配を敏感に察知すると、また大波のように高くせり上がり、建物ごと飲み込もうとする。


「させるかよ!」


 獣人族の戦士が、泥の妖魔に突進する。

 そして、盛り上がって露わになった真っ赤な瞳へ向けて、戦斧せんぷを振り下ろす。

 戦斧は、勢い良く妖魔の瞳に命中した。


 だが、悲鳴をあげたのは獣人族の戦士だった。


 妖魔は、振り下ろした戦士の腕ごと戦斧を泥に取り込み、鉄も肉も全て溶かしてしまう。

 肘から先を失った戦士が、悲鳴をあげて地面に転がり、のたうちまわる。

 仲間が慌てて妖魔と負傷した獣人族の間に割って入り、助け出す。


「接近戦は、駄目だ!」


 触れるもの全てを溶かす泥の妖魔に、剣や斧は効かない。

 かといって、遠隔から矢を放っても、意味はない。

 それでも、獣人族の戦士は果敢に戦おうとする。

 離れた距離から、肉厚の両手剣を振るう戦士。剣先から衝撃波が放たれ、妖魔に直撃する。

 しかし、妖魔は衝撃波など気に留めた様子もなく、接近してくる獲物がいなくなったことで、改めて民家を飲み込もうと動く。


「やめろぉぉぉっっ!」


 獣人族たちが叫ぶ。

 だが、彼らは無力だった。

 物理的な攻撃が効かず、獣力じゅうりょくを乗せた術さえ通用しない。

 妖魔の注意を奪うことさえできない獣人族たちの前で、民家が飲み込まれそうになる。


 イステリシアは、咄嗟とっさに動いていた。


 空間跳躍を発動させると、躊躇うことなく民家へ飛び込む。

 一瞬で屋内へと移動したイステリシア。


「住民の方は、どこですか!?」


 叫ぶ。


 時間がない。


 小さな民家だ。

 跳躍した場所は、質素しっそな居間。

 すると、奥の寝室らしき場所から、か細い声が聞こえてきた。


「ここだよ。でも、お母さんが……」


 聞き覚えのある声だった。

 イステリシアは、急いで寝室へと入る。


「お姉ちゃん!」


 イステリシアに無垢むくな笑顔を向けた鹿種の少女が、寝台の横で泣いていた。

 そして寝台には、せて顔色の悪い鹿種の女性が。


「手を貸しますから、早く逃げますよ」


 と、言いかけたその時。

 みしり、と家屋がきしみ音を上げた。


「お姉ちゃん、怖い!」


 泣きながら、少女がイステリシアに抱きついてくる。

 みし、みしみしっ、と上から押し潰されていく音と共に、鼻に付く異臭が屋内に立ち込めてきた。

 妖魔は、今まさにこの建物に覆い被さり、押し潰しながら全てを溶かしだしているのだ。


 はやく、脱出しなければ!


 もう、病人を担いで走って逃げ出す暇はない。

 手荒だが、空間跳躍を使うしかない。


「先に、病人の母親を連れだします。わらわ、経験不足でひとりずつしか跳ばせませんので。貴女は、ほんの少しだけ待っていてくださいね?」


 イステリシアの言葉の意味がわからず、少女は泣きながら首を傾げる。

 そんな少女にイステリシアはぎこちなく微笑みかけると、とこに臥せっている女性に触れた。


 少女を残し、イステリシアは女性をともなって空間跳躍を発動せる。

 次の瞬間には、イステリシアと女性は、屋外の安全な場所へと移動していた。


「うおっ!?」


 突然消えたと思った矢先に、病人と共に再出現したイステリシアの姿に、獣人族たちは目を丸くして驚く。

 だが、イステリシアには悠長ゆうちょうに事情を説明している暇も、初めての空間跳躍で悶絶もんぜつする女性に気を回す暇もない。


 見れば、妖魔は既に建物をまるごと包み込み、溶かし始めていた。


 妖魔が取り込んだ家屋の奥へと座標を定め、イステリシアは空間跳躍を発動させた。

 一瞬にして、先ほどの寝室へと戻ってきたイステリシア。

 屋内では、母親とイステリシアが急に消えたことに怯えたのが、少女がわんわんと耳痛く泣き叫んでいた。


「もう、大丈夫ですよ。さあ、今度は貴女の番です」


 言って、イステリシアが少女を抱きしめた時だった。


「ああっ!」


 屋根が崩れ、室内に泥の雨が降る。


 咄嗟の反応だった。

 空間跳躍を発動させる余裕はなかった。

 代わりに、イステリシアの防御本能が反応した。


 無意識のうちに、強力な精霊力で結界を張り巡らせたイステリシア。

 間一髪。泥の雨は、精霊術の結界に阻まれた。

 だが、結界に含まれなかった屋内は、地獄と化す。


 先ほどまで女性が横になっていた寝台が、泥の雨を浴びて無残に溶ける。

 屋根や壁だけではなく、床も家具も全てが泥によって溶かされていく。

 鹿種の少女は、泥に飲み込まれていく我が家をたりにし、耳痛く悲鳴をあげる。

 イステリシアは、そんな少女を強く抱きしめて、できるだけ優しく囁きかけた。


「大丈夫です。わらわ、貴女を助けますから」


 少女に覆いかぶさるイステリシア。

 外界の恐ろしい惨状が少女の視界に入らないように、抱きしめる。


『ああ、ああ、無力な娘よ。そうしてからに閉じこもっていても、事態は解決しない』


 そこへ、またしても正論を口にしてきたのは、風の精霊王だった。


 イステリシア自身も、気づいていた。

 己の過ちと、無力さを。


 泥の雨が降ってきた、あの時。

 身を守ろうとする防御本能を抑え込み、無理にでも空間跳躍を発動させておくべきだった。

 あの一瞬で、運命が定められてしまった。


「逃げる」という状況判断が「守る」という自己防衛に負けてしまった。

 眼前に迫った死の恐怖に、身がすくんでしまった、と言う方が正しいかもしれない。


 だが、もう遅い。


 逃げ遅れ、咄嗟に全力で結界を張ってしまったイステリシア。

 局所的な結果だけをみれば、全てを溶かす泥の雨から自身と少女を護ることはできた、とも言える。しかし、その代償に、空間跳躍や他の精霊術が使えなくなってしまった。


 じゅうじゅうと、取り込んだ家屋を溶かす、嫌な音が耳に届く。

 さらに、妖魔は結界を侵食し始めていた。

 イステリシアと少女を溶かして喰らおうと、泥の密度を上げて、結界に圧力を加える。


 今や、全力で結界を維持しなければ、泥の侵食に耐えきれない。

 空間跳躍を発動させようと、精霊力を分割してしまえば、その瞬間に結界を溶かされて、自分たちは喰われてしまう。


「お姉ちゃん、怖いよ……」

「大丈夫ですよ。必ず助かりますから。女神様は、わらわたちをお見捨てにはなりません」


 と、言っているそばから、結界の頂点に小さな穴が開く。

 ぽとり、と泥がしずくのように降ってきた。

 泥の雫は、少女を守ろうと覆い被さったイステリシアの背中へ落ちる。


「っっ!!」


 肌を溶かし、肉を焼く激痛に、イステリシアは悲鳴をあげそうになる。

 だが、今ここで自分が苦悶に悲鳴を上げれば、少女を不安にさせるどころか、最悪の場合は二人は妖魔に喰われてしまう。

 イステリシアは、激痛に耐えながら、結界のほころびを修繕しゅうぜんする。

 絞り出された精霊力により、頂点の穴は塞がった。


「女神様……?」


 少女は、イステリシアの胸の中で身を縮め、震えていた。


 どうやら、少女には今の危機は悟られなかったらしい。

 背中を襲う激痛に息を乱しながらも、ほっと胸を撫で下ろすイステリシア。


 イステリシアの腕の中には、小さな小さな、命がひとつ。

 イステリシアが手放せば、一瞬で消えてしまう、か弱い命。

 でも、この小さくか弱い命を、絶対に守り通してみせる。


 イステリシアは、強く決意する。

 そして、怯える少女の心に少しでも安らぎを与えようと、イステリシアは覚えたてのおとぎ話を語り出した。


 月と星々の物語。

 海に映る星が、夜空に浮かぶ満月に恋をしたお話。

 元気な子供巫女の、大冒険。


 イステリシアは、泥に覆われた結界の中で、いろんな話を語って聞かせた。

 少女は、イステリシアの腕の中で震えながらも、物語に耳を傾けた。






 幾つのおとぎ話を語っただろう。

 どれだけの時間が経っただろう。


 だが、状況は変わっていなかった。

 いや、むしろ刻一刻と、事態は悪化していく。


 イステリシアと少女は結界に護られているものの、周囲は泥に包まれたまま。

 妖魔は、取り込んだ二人をもてあそぶかのように、時間をかけて結界を侵食していた。


 時折、結界の天井に小さな穴が開く。

 妖魔は、そこから泥を何滴か、落とす。

 ぽたり、ぽたり、と結界内に落ちる泥の雫は、イステリシアに降る。

 泥は、一滴ごとにイステリシアの肌を焼き、肉を溶かす。

 その度に、イステリシアは悲鳴を噛み殺しながら、精霊力を絞り出して結界の穴を塞ぐ。


 だが、限界が訪れようとしていた。

 いいや、既に限界は越えていた。


 精霊力の枯渇こかつは、誰よりもイステリシア自身が深く理解していた。


 本来の精霊術とは、精霊力を精霊たちに与えることによって、己が実現成し得ない術を、精霊に代行してもらうすべを指す。

 しかし、今のイステリシアに力を貸す精霊はいない。

 精霊の力を借りられないイステリシアは、自らの精霊力だけをしろに、精霊術を発動させなければならなかった。


 そうすれば、何が起きるのか。

 答えは、最初から明白だった。


 早期の、精霊力の枯渇。

 精霊による術の増幅の恩恵が受けられない以上、結界を維持するためには、精霊力を絶えず垂れ流し続けなければならない。


 既に、イステリシアの精霊力は底をついていた。

 空になったうつわをひっくり返し、さらに絞りこんでようやく、結界を維持できている状況だった。


『ああ、ああ、あわれな娘よ。救いのない行為は無駄であり、偽善ぎぜんは自己満足でしかない』


 それでも、イステリシアは少女を少しでも安心させようと、気丈きじょうに微笑んで物語を語り聞かせる。

 そして、イステリシアが少女を守り続けている間も、風の精霊王は正論を口にし続けていた。


『現実は甘くない。世界は辛辣しんらつだ。其方も十全じゅうぜんに知っているだろう。それでも尚、其方は救われる、赦されると信じているのか』


 泥に閉ざされた世界においても、イステリシアは風の精霊王を視界に捉えていた。

 すると、今のイステリシアには不思議としか思えない光景が目に飛び込んできた。


『ねえねえ、父なる精霊様。こんな女なんて放っておいて、僕たちと遊ぼうよ』

『まあ、母なる精霊様ったら。こんな女になんて構わずに、楽しみましょうよ』


 おとぎ話を語っていると、これまで姿どころか気配さえ感じさせなかった精霊たちが、何度か精霊王とイステリシアの前に現れた。


「きっと、長い時間、精霊王が精霊たちにではなく、わらわに気を向けているから、嫉妬しっとしているのですね」


 精霊にとって、精霊王とは父であり母であり、崇高すうこうなる存在だ。

 その精霊王が、自分たちにではなく、み嫌うイステリシアに気を向けているのが気に入らないらしい。それで、嫌々ながらもイステリシアの前に現れて、風の精霊王を連れ去ろうとしている。


 イステリシアからしてみれば、正論を口にして心をえぐる精霊王が去ってくれた方が、精神的には有り難い。

 しかし、風の精霊王は、子なる精霊たちの言葉を受けても、イステリシアの前から去ろうとはしなかった。


『ああ、ああ、無力な娘よ。自己満足の果てに、その小さな命を散らすか』


 ふふふ、とイステリシアは、つい微笑んでしまった。

 自分の胸に抱かれて震える鹿種の少女を見て、なんて小さな命なのだろうと感じた。だが、風の精霊王からしてみれば、自分も「小さな命」なのだ。


『娘よ、微笑ほほえむか』


 イステリシアの微笑みを見た風の精霊王が問いかける。

 不敬ふけいだ、と逆鱗げきりんに触れたのかと危惧きぐしたイステリシアだったが、風の精霊王の意外な反応に、また笑みが零れた。


 そうか、と気づくイステリシア。


「風の精霊王様。風の精霊王様のお言葉は、わらわには痛いほどの正論です。ですが、わらわ、もう惑わされません」


 小さな命には、小さな命なりの輝きがあるのだ。

 風の精霊王から見れば、自分や鹿種の少女は、どれほどに小さな命なのだろう。

 しかし、どれほど小さくても、この世界にたしかに息づく「命」なのだ。

 そして、命ある者は命のある限り、たとえどれほど過酷であろうとも、この世界を歩み続けねばならない。


 逃げたいのは、嘘ではない。

 目を逸らしたいのは事実だ。

 赦されたい。救われたい。

 全て真実であり、それがイステリシアという耳長族なのだ。


「ですが……」


 イステリシアは、背中の激痛に耐えながら、心を抉る痛みに耐えながら、腕の中で震える「小さな命」の少女を強く抱きしめる。

 そして、風の精霊王をしっかりと見据えた。


「わらわ、巫女です。巫女として女神様にご奉仕し、世界のために尽くします。そして今は、わらわの腕の中で救いを求めるこの少女の命の輝きを、全力で守り抜くと心に誓います!」


 どれほど過酷であろうとも、己の罪から逃げ出したりはしない。

 目を逸らしたりはしない。

 赦される道を懸命に探し、償い続けよう。

 それでも、精霊は自分を赦さないだろう。

 しかし、赦されない、救われないからといって、歩みを止めることなどは絶対にできない。


 なぜなら。


 それは、生まれて初めて自分で選んだ道なのだから。


 そしてなによりも、目の前で救いを求めている者を見過ごすことなどはできない。


 耳長族として。

 人として。

 巫女として。


「ですから、わらわ、絶対にこの子を救ってみせます!」


 目の前にたたずむ風の精霊王に、強く言うイステリシア。

 小柄な耳長族の、揺るぎない大きな誓いに、しかし風の精霊王はまたしても正論を口にした。


『ああ、ああ、巫女の娘よ。しかし、其方の力は尽きてしまっている。そのような状況で、どのようにして妖魔から少女を護るというのだ?』

「それは」


 イステリシアは、腕の中の少女を、残る全ての力を振り絞って抱きしめた。


「限界だということは、わかっています。ですが、わらわは巫女です。だから、信じています。奇跡を!」


 泥に覆われた世界。

 見上げても、満月も星々も見えない。

 それでも、イステリシアは奇跡を信じ、天を仰いだ。


 まさに、その時だった。


「イステリシア!!」


 頭上の泥が割れ、光が差し込む。

 そして、泥を蹴散らし、ひとりの少年が降ってきた。


「エルネア!」

「待たせちゃって、ごめんね? でも、もう大丈夫だから!」


 エルネアは、イステリシアに満月のような満面の笑顔を向けると、右手に持つ白き神楽剣を振り抜いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る