長い夜
僕は、突然の事態に気が動転してしまい、何もできなかった。
思いもしなかった危機に思考は麻痺し、怯え身体を丸めて恐ろしい狼の群れから視線を外すことしかできなかった。
どんっどんっ、と何かが何かにぶつかる重苦しい音が僕の耳を掻き乱し、僕は音の度に震え上がる。
だけど、狼は鋭い牙や爪を立てて僕に襲い被さってこない。
それで僕は恐る恐る状況を確認しようと、頭を抱え込んだ腕の隙間から外を見た。
「だいじょうぶだいじょうぶ」
アレスちゃんが居た。
アレスちゃんは両手を狼の方にかざしている。
そして狼は、その両手の先で何か目に見えない壁に阻まれ、僕に鋭い牙や爪を振り下ろせないでいた。
狼が突っ込んでくる。
僕は身体を強張らせる。
だけど、狼はやはり何か見えない壁にぶつかると、弾き飛ばされ唸りをあげていた。
何匹もの狼が襲ってくるけど、全てがアレスちゃんの両手の先で阻まれ弾かれる。
「だいじょうぶ。こわくないよ」
アレスちゃんは僕を見て、優しく微笑んだ。
でも僕は、そのアレスちゃんの笑顔を見て、情けない気持ちで一杯になってしまったよ。
気が緩んでいたんだ。
意志が甘かった。
僕は、人外の地に来ているんだった。
凄腕の冒険者でさえ入らない危険な世界に足を踏み入れているということを、僕はいま心底実感させられていた。
一瞬も気を抜いてはいけなかった。
それなのに、思わぬご馳走にありつけ、静かな森の夜に油断をしてしまったんだ。
僕はなんて愚かなんだろう。
森に入ってすぐに、何者かに尾行されていたじゃないか。
空間跳躍で一時的に撒いたとはいえ、相手が諦めずに追ってくることは想定のうちだった。
それなのに、警戒をすることもなくうたた寝をしてしまったんだ。
僕を最初から追跡していたのは、この狼の群れかもしれない。
複数で色んな角度から追われていたせいで、追跡者の方角を正確に捉えることができなかったのかも。
そして、兎を捌いたのが不味かった。
内臓や食べない部分は地面に埋めたんだけど、血の匂いで狼たちを導いてしまったんだ。
捌くとしても、野営場所からは離れたところですべきだった。
「ごめんね」
僕はアレスちゃんに謝った。そして感謝したよ。
僕は、アレスちゃんが居なかったら、この狼の餌食になっていたのは間違いないよね。
アレスちゃんは霊樹に宿る精霊だから、僕がひとり旅をするといってもついて来てたんだ。
「こわくないよ。まもってあげる」
アレスちゃんは両手を狼たちにかざしたまま、僕に優しく笑っている。
でも両手の先では、今でも狼たちが見えない壁に向かって体当たりを繰り返し、鈍い音を立てて弾き飛ばされ続けていた。
「うん。守ってくれてありがとうね」
僕は気を取り直し、立ち上がる。
ミストラルを迎えに行くとか、ひとりで竜峰を旅するとか、地に足の着いていない緩い考えだったのかも。
ひとりで旅をするということは、終始自分のことは自分で守りきらなきゃいけないんだ。頼る人なんていないんだ。
それは、竜峰であってもアームアード国内であっても、同じなんだよね。
今回はアレスちゃんのおかげで命拾いをした。
本当なら僕の人生はここで終わっていてもおかしくはなかったんだね。
「ごめんね。でも、もう大丈夫。僕はもう油断しないよ」
言って僕は、アレスちゃんのように両手を前に出し、竜気を練りあげた。
僕の姿を見て、アレスちゃんはうんうんと頷いてくれる。
「がんばれがんばれ」
そしてアレスちゃんは、光の粒になって夜の森の闇に溶けて消えた。
僕たちと狼の間にあった見えない壁も同時に消え、狼の群が僕に向かって一斉に迫る。
「お前たちで足止めされるわけにはいかないんだ!」
僕は錬成した竜気を術に変え、解放する。
緑色に可視化された突風が両手の先から放射状に放たれ、眼前に迫った狼たちを一気に薙ぎはらう。
僕は、吹き飛ばされる狼たちの後方で吠える一際大きな狼の姿を、竜気の宿った瞳で捉えた。
両手をその大きな狼の方へかざし。
竜気を細く束ね。
一本の細い矢へと具現化させて、飛ばす。
矢は一瞬で狼を貫き。
小規模な爆発を起こす。
爆風で、周りにいた狼のうち数匹が飛ばされた。
「僕にこれ以上付き纏うなら、容赦しないぞ」
僕は全身に竜気を
一瞬で狼たちの動きが止まる。
「退かなきゃ、今の狼のように一瞬で肉片に変えるよ」
言葉は通じないけど、僕の迫力は伝わったみたい。
じりじりと少しずつ後退しだした狼たち。そして、最初の一匹が尻尾を巻いて逃げ出すと、そこからは全ての狼が僕に背を向けて、我先にと深い森の闇の中へと逃げていった。
狼たちの姿が見えなくなっても、僕は一時警戒して気を張っていた。だけど、完全に狼の気配が消えたことを確認すると、一度心を落ち着かせる。
今の危機はアレスちゃんの助けでなんとか切り抜けられたよ。
「ありがとうね」
僕は霊樹の木刀に触れ、今は見えないアレスちゃんにお礼を言う。
そうしたら、耳元にふわりと優しい気配を感じた。
さあ、気を取り直して行動しよう。
まだ夜中過ぎだろうけど、移動したほうが良い。
兎を捌いた時の血の臭いはきっと消えていない。それに、今しがた狼を殺して、更に血の臭いを広げてしまっているからね。
さらに厄介な魔物や魔獣を呼び寄せてしまうかもしれない場所には長居できないよ。
僕は素早く荷物をまとめると、岩の窪みの野営地を片付けて後にした。
竜気を瞳に宿らせれば、光の届かない森の奥でも視界は確保できる。
僕は警戒しつつも、足早に移動した。
先ずは竜峰へと続く道に戻り、先へと進む。
暗い森の道は、僕に自然の怖さを再確認させているように感じた。
ひとり旅は、本来は慣れた旅人や冒険者がすることなんだろうと今更ながらに思う。
だって、頼る人は誰もいないんだよ。
一日中、何日も旅をするならその間中、周りへの警戒は怠る事ができないんだ。
誰かと一緒なら、寝る時は交代で見張ればいい。でもひとりなら、寝ている時は完全に無防備になっちゃうよね。
旅の間、どこで心と身体に休息を入れ、どう警戒しながら寝たりするのか。僕には知識も経験も完全に不足していることを痛感してしまう。
ミストラルやスレイグスタ老は、勿論僕のこうした弱点や考えの甘さは認識していたに違いない。
だけど、注意はしても思い止まらせるような事はしなかった。
それはきっと、僕にはアレスちゃんという霊樹の上位精霊が
それにさえ気づかなかった僕。
なんて浅い認識と覚悟だったんだろう。
自分の不甲斐なさに、僕はつい苛々してしまう。
「しっぱいはだれでもあるよ。だかられんしゅうすればいいよ」
いつの間にか現れたアレスちゃんが、優しく僕の手を握ってくれた。
「本当は、失敗したら一発で駄目なんだけどね」
「そんなことないよ。ミストラルでもしっぱいするときはあるよ。でもそういうときにささえあうのがなかまだよ」
「うん。そうだね。アレスちゃん、支えてくれてありがとう。いつか今度は僕が支えてあげられる立場になるからね」
「うん。たのしみ」
アレスちゃんは満面の笑みで僕を見上げていた。
最初から完璧なんて、僕には無理だね。情けないけど、一人前に旅が出来るようになるまでは、アレスちゃんの助けも必要らしい。
ひ弱な僕の一人旅を認めてくれたミストラルたちにも、そのことはわかっているんだろうね。
僕だけがひとりでやりきれると勘違いしていたんだ。
ミストラルたちは最初からアレスちゃんありきの旅になることは承知の上。
なら申し訳ないけど、今はそれに甘んじよう。
死んでしまっては意味がない。
先ずは誰かに頼りながらでも良いから、着実に竜峰を目指すことが何よりも大切なんだ。
僕は気合を入れ直し、新たな覚悟を胸に夜の森を進んだ。
休みなく夜通し歩き続けた。
休憩を取り仮眠も必要だとは思ったけど、昨夜の出来事で興奮状態が続いていて、休んでも落ち着かなそうだったので、無理のない程度の歩調に切り替えて歩き通したんだ。
だけど、周囲警戒はアレスちゃんと交互に行っていたので、僕はそこまで疲弊することもなく朝を迎えた。
鬱蒼とした森は相変わらず。
でも今、僕の目の前には、無数の丸太の杭で外壁を築いた村があった。
たどり着いちゃった。
本来なら今日のお昼頃に到着する予定だった、一番最初の竜人族の村。
ミストラルが言っていたよ。西の砦から一日半進んだところに、竜人族の隊商が集まる村があるんだって。
竜峰の各地から集まった人たちがここで合流し、隊商を組んでアームアード王国の王都へと向かうんだって。
竜人族にとっては最東端の村であり、人族にとっては一番最初に訪れる竜人族の村なんだよね。
村には、外と中を隔てる門はなかった。
村の外縁に沿って丸太の杭が並んでいるけど、道を隔てる障害物はない。
僕は躊躇いなく村の中へと入る。
早朝に人族がやって来たら、竜人族の人たちは驚くかな。
どんな人たちが暮らしているんだろう。
歓迎してくれるのかな。邪険に扱われるかもしれない。
期待と不安とともに村へと入った僕は、そこで大勢の竜人族を目にすることになった。
とはいっても、見た目は人族と変わらない。
ミストラルもそうだし、ニーミアと前にアネモネさんの村に行った時も思ったけど、人族と見分けなんてつかないよね。
人族の入り込まない竜人族の村にいる人だから、この人たちが竜人族なんだと、僕が勝手に認識しただけなんだ。
村の中ほどでは、何台もの馬車が道の脇に並び、屈強な男性、活発な女性が忙しなく動き回っていた。
ああ、これは春の隊商だよ。
立春を迎えると、その年一番目の竜人族の隊商がアームアード王国の王都にやって来るんだ。
僕の視線の先で馬車に荷物を担ぎ込んでいる人たちは、まさにその隊商の人たちなんだろうね。
見た目は人族と同じだし、馬車に荷物を載せたりしている風景は、人族の商人なんかと変わらない。
これは、王都内で見かけても、絶対に竜人族の隊商だなんてわからないね。
僕が目の前の光景に見入っていると、ひとりの男性が僕に気づいた。
「驚いた。人族の子供がどうしてここに?」
男性の声で、周りに居た他の竜人族の人たちも一斉に僕に気づく。
「お、おはようございます」
作業をしていた全員の視線を集めてしまった僕は、村の入り口で緊張で身体を強張らせてしまった。
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