森の住人
目の前で男が大狼の魔獣に食べられる。凄惨な状況から目を離そうとした瞬間。魔獣と男のわずかな隙間を、一本の矢がすり抜けて飛んでいった。
反射的に身を引く大狼魔獣。
そして大狼魔獣は、ぐるぐると警戒に喉を震わせて森の中を睨んだ。
なんだろう。何が起きたの。誰が矢を放ったの。僕も動かせる範囲で身をくねらせ、首を動かして辺りの状況を伺った。
「この森で、罪人の不潔な血と魂を流すことは許さぬ」
僕と大狼魔獣、そして間一髪助かった男の視線の先。森の奥から現れたのは、精悍な顔立ちをした弓を構えた男性だった。
若草色に染めあげた上半身を守る革鎧。服も靴も緑色。絹のような銀髪は肩口で綺麗に揃えられていて、鋭利な刃物のような鋭さのある顔立ち。
引き絞られた弓矢で魔獣を狙い定め、慎重に近づいてくる。
そして、鋭い表情の顔の横、美しい銀髪の間から、長く尖った耳が出ていた。
耳長族だ。
僕は息を呑む。
多くの物語で伝え語られる、伝説の種族。
深く清らかな森の奥でひっそりと暮らし、自然との調和を重んじる。住まう森に迷いの呪いをかけ、外界との関わりを絶った古の種族だ。
「た、助けてくれぇ」
男が這いずって耳長族の元へと行こうとする。
しかし、別方向から矢が飛んできて、男は驚いて悲鳴を上げた。
「罪人風情が、我らに助けを請う資格などあるものか」
耳長族は、銀髪の男性ひとりだけじゃなかった。
いつの間にか、僕たちを囲むように何人もの耳長族が弓を構えていた。木の上、茂みの中、そして僕の背後にも。
二十人ぐらい居るんじゃないかな。
濃淡の違いはあるけど、全員が最初の男性と同じような装備だった。
最初に現れた男性に気を取られていたといっても、まさかこんな大人数に包囲されているなんて、全然気づかなかったよ。
「カーリー。どうする」
僕の背後にいるひとりが口を開く。
「魔獣次第だな。魔獣め、引けばここは見逃してやる」
最初に現れた男性がカーリーという名前らしい。僕の背後の人の言葉に反応して口を開いた。
大狼魔獣は、現れた大勢の耳長族を警戒して未だにぐるぐると唸り声をあげている。複数人に弓矢を向けられても、一向に引く気がないようだ。
耳長族も大狼魔獣を警戒して、一定の距離からは近づいてこない。
「魔獣であれば、人の言葉くらい理解できるだろう。退けと言っている。退かねば、我らは容赦せぬぞっ」
言ってカーリーさんは、魔獣の足元に矢を放つ。
鋭い音がして、矢が地面に突き刺さった。
カーリーさんは、見た目はさほど
しかし、魔獣はカーリーさんの警告を意にも介さず、唸り続ける。
魔獣は狡猾で、個体によっては人よりも優れた知能を持っていることがある。
その魔獣が、これだけの大人数に囲まれても物怖じしないということは、多人数の耳長族よりも自分の方が上だと思っているのかな。
張り詰めた空気が場を支配する。
僕としては、耳長族に勝ってほしい。じゃないと、助からないよ。
そして早くこの猿ぐつわを取ってください。口の中が非常に気持ち悪いことになっているよ。
全身の傷、特に肩口の矢傷が焼けるように痛い。右腕はもう痺れてて感覚がなくなっていた。
「やるしかないか」
誰かが言った。
大狼魔獣が身構えた。
耳長族の構えた弓が限界まで引き絞られる。
「全員、そこまでっ」
今まさに決戦の一撃が放たれようとしたその時。僕は聞き覚えのある声を耳にした。
そして、場に降って現れたのは、ミストラルだった。
まさに降ってきたよ。森の木々の上から、どすんと地上に降り立ったミストラル。
女神様降臨、というような神々しさは全くなく、ミストラルは殺気を身に纏い現れた。
「ぐっ、ミストラル嬢」
突然現れたミストラルに気圧されてか、カーリーさんが唸る。
「カーリー殿、弓矢を収めてください」
「い、いやしかし」
ミストラルは口調こそ丁寧だったけど、有無を言わさぬ気配を醸し出していた。
カーリーさんはそれでも、大狼魔獣と僕、それに男を見て躊躇っていた。
「魔獣よ、貴方も大人しくしなさい」
言って大狼魔獣を睨むミストラル。すると大狼魔獣はぐるぐると唸りながらも、見るからに縮こまっていった。
尻尾をお腹の方に回して隠しているよ。犬と一緒だね。大狼魔獣は明らかに、ミストラルに怯えているよ。
そりゃあ、一度張り倒されてるからね。
「この魔獣は問題ないです。翁が森への害は無し、として黙認しています。それとも、この森に暮らすあなた方は翁が黙認している者を傷つける、と言うのでしょうか」
「だが、森を罪人の血で汚した」
耳長族の誰かが言った。
「それは、この子を助ける為に仕方のなかったこと。この魔獣は、この子を助けようとしたのです」
言ってミストラルは、僕を指差した。
えっ。大狼魔獣が僕を助けた? そんなの初耳ですよ。だって、これまで散々僕を狙って追い回してきた魔獣じゃないですか。
それにミストラルに張り倒されて、恨みこそあっても助けようとは思わないんじゃないかな。
僕の疑問は顔に出ていたのかな。ミストラルは僕を見て苦笑した。
「とりあえず、傷の手当を」
そう言ってミストラルは僕の縛りを解いてくれる。
「ま、待て。ミストラル嬢。仮に貴女が言うように、魔獣がその人族の子供を助けるために血を流したとしよう。だが、その子供自体はなんだ。なぜこのような森の奥深くで手足を縛られ、負傷して転がされていたのだ」
カーリーさんの困惑した言葉を背中に聞きながら、ミストラルは僕の傷の手当てをしてくれる。
猿ぐつわを解き、水で口をすすぐ。やっと気持ち悪いものが口から無くなったよ。
「痛みますが、男の子なら我慢しなさいね」
ミストラルは僕の肩口に刺さったままだった矢を抜く。
激痛が再度僕を襲ったけど、すぐに癒されていく。ミストラルが傷口に何かを塗ってくれていた。
あれだね、あれ。
「ミ、ミストラル嬢?」
無視されたカーリーさんが困っているよ。
だけど、ミストラルは僕の治療を最優先してくれて、黙々と傷口に鼻水万能薬を塗ってくれた。
鼻水と思うからいけないんだね。有難い薬と思えば、気持ち悪さはないよ。
ミストラルが治療をしてくれている間、耳長族と大狼魔獣、それに密採者の男は待ちぼうけを食らっていた。
ミストラルが、お前たちは後、という雰囲気を出していたから誰も逆らえなかったんだね。
一通り僕の治療をしてくれたミストラルは立ち上がると、カーリーさんに微笑んだ。
「すみません。お待たせしました」
うん、みんな随分と待ってたよ。僕としては優しく介抱してくれるミストラルに感謝なんだけど、待たされていた方はどうすれば良いのかわからずに困惑だよね。
「そ、それで。その子供は何者なのです。なぜ魔獣がその子供を助けたと言うのでしょう」
カーリーさんが気を取り直して聞いてきた。
するとミストラルは僕に手を差し伸べて立たせてくれた。
「この子は、わたしの未来の夫です」
おお、躊躇いなく言ってくれました。恥ずかしくて僕の方が赤面して俯いちゃった。
「なっ、えっ!?」
驚きと困惑の表情を浮かべる耳長族の人たち。
「それと、この魔獣はこの子に興味があって付きまとっているだけです。この子を害する気は持っていません」
言って魔獣を
魔獣は、びくんと反応して慌てたように何度も頷いた。
本当なの? なんか信じられないよ。でも大狼魔獣はミストラルには絶対服従っぽい。尻尾が隠れたままだ。一度張り倒されたからって、怯えすぎだよ。
耳長族には威勢が良かったのにね。
ということは、ここに居る耳長族全員よりもミストラルの方が強いのかな……
お、おそろしい。
「お、夫!?」
ようやく言葉が飲み込めたのか、カーリーさんが声を裏返して反応した。
「ば、馬鹿な。竜人族の竜姫ともあろうお方が、人族の子供と夫婦になるというのか」
「ありえない……」
「なぜこの子供なんだ」
「母ちゃん、おいら人族の子供に負けたよ……」
耳長族の人たちは口々に驚きを漏らした。
「この子はエルネアと言います。苔の庭で、翁より竜剣舞を習う者です」
ミストラルの補足に、耳長族の人たちが僕を一斉に見た。
「あの方は、人族の子供にあの奥義を授けようとしているのか」
「はい。資質あり、との判断です」
「な、なるほど。只者ではないのですな」
カーリーさんは僕の側まで寄ってきて、まじまじと全身を見てきた。
は、恥ずかしい。
なんか品定めをされている気分だよ。
「ふむ。それでは、エルネア殿はこのままミストラル嬢にお預けしよう。魔獣も見逃せ、と言うのなら従う。しかし、この罪人は断じて許さぬ」
僕の品定めが済んだカーリーさんは、怒気を含んだ視線で、未だに地面にへたり込んでいる男を見据えた。
あれれ。今気づいたけど、この密採者の男の人、なんか放心しているよ。
瞳は虚ろで、口がだらしない半開きになっている。
「精霊術で精神をやられたのよ」
ミストラルが耳元で教えてくれた。
精霊術か。いつの間に使ったんだろう。
耳長族は精霊を使役して、色んなことを行えるんだよね。
男の人は多分、精霊に心を麻痺させられたのかな。
「森の中で三人倒れていた。だが息はあるようだ」
「ひとりは逃げ出していたな。別働隊が今頃捕らえているだろう」
森の茂みの奥から、三人の男を縛り上げて耳長族がさらに数人現れた。
「今回はこれで、お互いに引き上げましょう」
「承知した。この罪人の処遇は我らに任せていただきたい」
カーリーさんとミストラルは互いに頷きあう。
行きなさい、とミストラルが大狼魔獣に手を振ると、大狼魔獣は音もなく遁甲して消えていった。
ミストラルは大狼魔獣を見送ると、僕の手を引いて歩き出す。
別れ際、カーリーさんは僕に言った。
「竜姫の夫か。今度ぜひ我らの村に遊びに来たまえ」
思いがけない言葉に、カーリーさんの方を振り向く僕。
カーリーさんはかっこいい笑みを浮かべて僕たちを見送っていた。
何か含みがありそうな感じだったけど、気のせいかな。
ミストラルは気にした様子もなく、僕の手を引いて歩く。
僕の大きな傷はさっきミストラルが鼻水万能薬で治してくれたけど、まだ全身の至る所に擦り傷があって、身体を動かすと痛かった。
でもミストラルに弱いところはこれ以上見せられないからね。僕は痛みを我慢して歩いた。
しばし無言で歩く僕とミストラル。
耳長族の人たちも見えなくなってから、ミストラルは立ち止まって僕に振り返った。
「ごめんなさい」
ミストラルは苦渋の顔で、謝ってきた。
「えええっ。なんでミストラルが謝るの。僕の方こそ助けてくれてありがとうなのに」
僕は慌てる。ミストラルが僕に謝らないといけない事なんて何もないよ。
「いいえ。 わたしは駄目ね。今回もまた、貴方の危機に間に合わなかった」
俯くミストラル。
「なんのこと? ミストラルは助けに来てくれたじゃないか。遺跡の時も今回も、ミストラルのおかげで僕は無事だったんだよ」
そうだよ。遺跡の時は、僕ひとりでは黒甲冑の魔剣使いには勝てなかったと思う。今回も、ミストラルが来てくれなかったら耳長族の人たちにどう扱われていたか。
僕が必死にミストラルは悪くないよ、と慰めていると、今度は怒り出した。
「だいたい、貴方は危険に首を突っ込みすぎなの。一人前になるまではもっと自重しなさい」
「いたいっ」
拳骨が飛んできた。さっきまでは凹んでいたのに、今度は怒るだなんて。理不尽だよ。
「一人前になったら、いっぱい首を突っ込んでもいいのかな」
僕の反抗は二発目の拳骨で粉砕された。
痛すぎる。
頭にも鼻水塗ってください。
しくしくと涙目の僕は、ミストラルとふたり並んで森の中を歩いて行った。
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