235 落ち着かない義父と、義弟の目標

「……お父さん、ウロウロしてないで座ったら?」

「あ、ああ、うん」


 リビングでソワソワしているお義父さんに対し、あーちゃんが呆れ気味に言う。

 長野での対長野ハイドバックウィーツ3連戦を終えたその日の内に山形県に帰ってきて、翌日早朝に鈴木家に立ち寄った際のやり取りだ。

 ビジター3連戦中にリーグ優勝が決まる可能性があって帯同していたお義父さんもまた、俺達と一緒に戻ってきていたのだが……。


「お父さん、また」

「わ、分かってる」


 自宅にいるにもかかわらず、彼はどうにも落ち着かない様子だった。

 あーちゃんに注意されて大人しく椅子に座ったかと思えば、しばらくするとまた立ち上がってウロウロし出す。

 部屋の中を行ったり来たりしていて、視界に入ってきたりいなくなったり。

 今日は別の用事で来たのだが、それに気を取られてしまう。


「お父さん、3度目」


 繰り返し指摘されても、少しすれば再び歩き回り始めてしまう。

 これは内心で鬱陶しいとか思われても仕方がないかもしれない。

 とは言え、今日に限ってはお義父さんの気持ちも理解できなくはない。


 交流戦明けのこの3連戦。

 村山マダーレッドサフフラワーズは、現在私営イーストリーグ最下位の長野ハイドバックウィーツを全く危なげなくスイープした。

 一切の容赦もなく打ち込んで、可哀想になるレベルで蹂躙した。

 つまり、マジック対象チームである2位静岡ミントアゼリアーズが3連勝できなければリーグ優勝決定、といった状況ではあったが……。

 わざと負けるということはしなかった俺達の誠実な祈りが通じたのだろう。

 意地を見せた静岡ミントアゼリアーズは、5位富山ブラックグラウスを一蹴。

 その結果、幸いにしてビジターゲームでリーグ優勝決定とはならずに済み、丁度マジックナンバー1で本拠地に帰還することができていた。

 ただ、微妙に先延ばしになったのもまた事実で――。


「4度目。今からそれだと体が持たない」


 球団社長であるお義父さんを含めた村山マダーレッドサフフラワーズの球団職員は、リーグ優勝決定目前という状況から解放されずにいたのだった。

 ……あ、また立ち上がって歩き出した。


「アナタ、本当に茜の言う通りよ? 昨日はほとんど寝られなかったみたいだし」


 お義母さんも困ったような顔と声色で娘の側に加わる。

 対するお義父さんの方はと言えば、何とも微妙な表情を浮かべている。

 うーん、これはもしかすると……。


「――それって、昨日だけですか?」

「あー……いや、その、何だ」


 俺の問いかけに対し、視線を逸らして言葉を濁すお義父さん。

 怪しい。

 少なくとも2、3日は睡眠不足のまま来ていそうだ。


「ソワソワして落ち着かないのは?」


 半ば問診のような状態になり、彼は一層気まずげに口を噤む。

 代わりに、お義母さんが「2、3週間ね」と答えた。


「ええ……」


 さすがにそれは長いな。

 そうは思うものの、やはりお義父さんにとって村山マダーレッドサフフラワーズのリーグ優勝というものはそれ程の一大事なのだろう。

 いや、それにしたって長過ぎるとは思うけれども。


 何にしても、当時クラブチームに過ぎなかった自分の球団を日本一にするというある意味で妄想に近かった夢がいよいよ現実味を帯びてきた。

 リーグ優勝し、そしてプレーオフを制し、日本シリーズを勝ち抜けば夢が叶う。

 もう手が届くところまで来ている。

 たとえ俺達にとっては打倒アメリカの通過点に過ぎないとしても。

 球団社長である彼にとっては、日本一が1つの到達点であることは間違いない。

 俺とあーちゃんとお義父さん。

 いつか3人で交わした約束の結実でもある。

 ここまで入れ込んでくれているのは、ある意味ありがたい側面もある。


 とは言え、今からこの調子では困るのもまた事実だ。

 夢が実現する日は、まだしばらく先なのだから。

 レギュラーシーズンの全日程が完了するのすら1ヶ月以上先のこと。

 そこからプレーオフがスタートして、日本シリーズは更にその後だ。

 あーちゃんが言う通り、今からこんなことでは間違いなく体が持たない。


「お義父さん。今日リーグ優勝が決まって祝勝会になるんですから、ちゃんと休んでて下さい。夜が本番ですよ」

「しゅー君が先発する以上、勝ちは確定。仮眠を取って備えておくべき」

「そ、そうだな。そうしよう」


 口ではそう言うが、この様子だと本当に眠れるかは大分怪しいところではある。

 しかし、単に目を瞑ってジッとしているだけでも大分違うものだ。

 少なくとも、視覚情報から来る脳疲労はある程度回避することができる。

 これは馬鹿にできない。

 不眠症気味だとしても、しないよりは余程マシだ。


「絶対に今日で優勝を決めてきますから、ホントのホントに頼みますよ? 父さんだけじゃなく、お義父さんまで体を壊すなんて目も当てられませんからね」

「あ、ああ…………そう、だな。うん、分かった。必ず、ちゃんと休んでおくよ」


 さすがに脳卒中で倒れた父さんを引き合いに出した言葉は心に響いたようだ。

 反省したように、そうしっかりと明言してくれた。

 意を決したように寝室に入っていく様子を見る限り、とりあえず大丈夫だろう。

 さて、今日の訪問の本題に移るとするか。


「ところで暁。学外野球チームでシンクロ打法を教えられたんだって?」

「え? うん、そうだよ」


 俺達のやり取りを傍観していた暁に尋ねると、彼は戸惑い気味に肯定する。

 8月。小学校は夏休みなので今日も練習がある。

 朝の割と早い時間から開始されるので、もうしばらくしたら家を出る予定だ。


「しゅー君、シンクロ打法って何か悪いの?」


 弟のことだけに、不安そうに尋ねてくるあーちゃん。

 おっと。無駄に心配させてしまったようだ。


「ああ、いや、基本的に何の問題もないよ」

「基本的……?」


 小さく首を傾げるあーちゃん。

 頭の中にあったちょっとした懸念が滲み出た言い方になってしまい、彼女の不安を払拭するには至らなかったようだ。

 しかし、別に眉唾なトンデモ理論ではないのは確かだ。


 前世では手垢がついた話ではあるが、それはつまるところ手垢がつく程に多くの人に取り上げられていたということに他ならない。

 野球というスポーツにおいて至極真っ当なことを言っている。

 少なくとも俺はそう思っている。


「理論そのものに何か文句がある訳じゃないよ。あれからバズッてた動画を見たけど、特に変なことは言っていなかったからな」


 バッティングはタイミングを合わせること。

 ピッチングはタイミングを外すこと。

 それが間のスポーツであるところの野球の極意とも言われる。


 シンクロ打法は正にそれに則ったものだ。

 投球動作と自分のバッティングフォームを同調させる予備動作を行う。

 概要としてはそれだけ。

 よく例に出されるのは、じゃんけんの時に手を上下させる動き。

 この予備動作によってポンのタイミングが合う。

 じゃんけんをしたことがない者はそうそういないはずだから、それについては自分自身の経験から何となく分かることだろう。

 野球に適用するなら、このポンが正にバットとボールのコンタクトの瞬間。

 そこから逆算して、バッティングフォームの始動のタイミングを相手ピッチャーの投球動作に同調させるのがじゃんけんの部分になる。

 代表的な予備動作としては踵を踏むような動きが挙げられる。

 この理論を提唱した人物は、プロ野球選手の打撃練習を見た際に一流のバッターが正にそうした動作を行っているのを見て考えついたらしい。


「じゃあ、別に問題ないんじゃないの?」

「いや、それは暁次第だな」

「え、僕?」

「そう。暁は将来どうなりたい? アマチュアで野球を楽しみたい? プロ野球選手になりたい? なったとして、どのレベルを目指す? WBWに出場したい?」

「え、えっと……」


 まだ小学生の彼には少し酷な話かもしれないけれども。

 目標というものは早い内に明確化しておいた方がいい。


「それと何か関係あるの?」

「ある。どのレベルかによっては、問題が出る可能性がある」


 バズッた動画は、確かに何も間違ったことは言っていなかった。

 しかし、受け取る側が落とし穴を見過ごしたまま都合のいい解釈と共に運用してしまうと、本当に大事な場面で致命的な状況に陥りかねないのだ。

 ハイレベルなステージに進む程、陥穽に嵌まった時のダメージが大きくなる。

 暁がそこそこのところで十分と思っているのなら、別に構わないのだが……。


「僕はお兄ちゃんと一緒にWBWに出たい!」

「暁、わたしは?」


 またハブられたと思ったあーちゃんが不満そうに言う。

 しかし、今回は暁にキョトンとした顔を向けられてしまった。


「お姉ちゃんって僕が出られる頃、まだプロ野球選手をしてるの?」

「…………ん。その頃には絶賛子育て中のはずだから、多分してない」


 小学生の暁にまで認識されている彼女の家族計画は脇に置いておくとして。


「話を戻すぞ。本当にWBWを目指すなら、暁は一歩先を考えないといけない」

「一歩先?」

「そう。シンクロ打法ってのは、ピッチャーの投球動作があるところから必ず一定になるっていう前提の下で成り立った話だ」


 暁は今一ピンと来ていないような表情を浮かべた。

 なるべく端的に言おうとしたが、かえって分かり辛くなってしまったか。


「まあ、詳しいところは追々な。そろそろ出発しないとだろ?」

「あ、うん」

「また村山マダーレッドサフフラワーズの公式から動画を出すからさ。それを見てじっくり考えてくれ。これからどうしていくかを」


 抽象的な俺の言葉に若干首を傾げながらも小さく頷く暁。

 動画を見れば、何となく何故俺がそんなことを言ったのか分かるだろう。

 が、今日のところは時間もないのでここまでだ。


「じゃあ、行ってらっしゃい。暁」

「うん。行ってきます、お兄ちゃん」


 そうして、今回はお義母さんと共に野球の練習に向かう彼を見送る。

 鈴木家に残った俺とあーちゃんは――。


「お父さんがちゃんと休んでるか監視する」


 ホームゲームでのナイター。

 そして、その後の祝勝会に向けて。

 どうやら眠ることができた様子のお義父さんをあーちゃんと2人でそれとなく見守りながら、のんびり時間が過ぎるのを待ったのだった。

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