227 父さんの夢

『2年半前、野村秀治郎選手のお父様である野村健也さんは脳卒中で倒れられ、幸い命に別状はありませんでしたが、半身に麻痺の後遺症が残りました。厳しいリハビリの末、杖を用いて歩行可能となるまで回復されたことは、昨年のファン感謝祭で行われた野村秀治郎・茜夫妻の結婚式を御覧になった方はご存知かと思います』


 両親を利用……という言い方をするとさすがに語弊があり過ぎるだろうが、正直なところ2人の手を借りるという考えは俺の頭の中には全くなかった。

 これが、あーちゃんの考えた好感度アップ作戦……か。

 確かに効果は高そうだ。

 息子としては両親への申し訳なさが勝ってしまうけれども。

 そうやって複雑な気持ちを抱いている間にも、仁科さんのアナウンスは続く。

 この満員のスタジアムで、無理にイベントをとめることはできない。


『そんな野村健也さんもまた、当然ながら幼き日はプロ野球選手に憧れておりました。その夢こそ叶いませんでしたが、父の日の今日、プロ野球選手となった息子の野村秀治郎選手とバッテリーを組んで始球式のマウンドに立つこととなりました』


 そこで登場する段取りだったのだろう。

 村山マダーレッドサフフラワーズのユニフォームを着た父さんと母さんが姿を現し、ゆっくりとマウンドまで歩いていった。

 母さんは杖を突く父さんを気遣うように寄り添ってはいるが、支えてはいない。

 しっかりと自らの足で、父さんはマウンドに立った。

 そこには本来の主役であるお義父さんが既にお義母さんを伴って待っていて、両親同士で何やら言葉を交わし始める。

 それぞれに笑顔が見える。穏やかな雰囲気だ。

 その様子を同級生の女子4人組の1人である泉南さんが撮影していた。

 こちらには相変わらず諏訪北さんのカメラが向けられている。


『尚、お父様の野村健也さんが今回のイベントに参加することは、野村秀治郎選手にはつい先程まで伝えておりませんでした。野村茜選手の発案でサプライズイベントとし、野村健也さんは秘密裏にトレーニングを重ねて本日に臨んでいます』


 仁科さんがそう告げると、バックスクリーンに動画が流れ出した。

 練習球場でグローブとボールを手に持った父さんの姿だ。

 その傍らには青木さんと柳原さんがいる。

 更にもう1人。グローブをはめた女性が父さんの前方、丁度キャッチボールの相手をするような位置に立っている。

 青木さんや柳原さんと同じく山大総合野球研究会で出会った金田菜摘さんだ。

 彼女が目指しているのはスポーツ栄養士だが、併せて様々なトレーニングを自分の身で実践しているおかげか体格が非常にいい。

 村山マダーレッドサフフラワーズの女性陣よりも一回り以上大きいぐらいだ。

 恐らく、あーちゃんの依頼で練習のサポートをしてくれていたのだろうが……。


「い、いや、そりゃ大分歩けるようにはなったけどさ」


 それだって、あくまでも発症直後との比較の問題だ。

 未だに杖は必須だし、長時間の歩行ができる訳でもない。

 まともに投げるには心許なさ過ぎる状態だ。

 もしファーストピッチセレモニーの最低限にも満たない投球になってしまったとしたら、重い後遺症がある人間を無理矢理担ぎ出したとして反感を買いかねない。

 下手したら、父さんや母さんにまでとばっちりが行くかもしれない。

 そんなことは父さん達も重々承知しているはず。

 となれば、当然――。


『絶対にノーバウンドで、マウンドから、秀治郎まで、届かせたいんです』


 球場に流れた父さんの音声の通り、そこまでを最低限として考えるだろう。


『……分かりました。俺達が精一杯サポートします』

『一緒に頑張りましょう』

『微力を尽くします』

『ええ。3人共、お願い、します』


 青木さん達に深く頭を下げる父さんの姿がバックスクリーンに映し出される。

 動画には日付が分かるような情報は出ていない。

 これがあーちゃんの計画であることを知っている俺達以外は、もっと長期的な話だったと思っているはずだ。

 しかし、実態は僅か2週間程度の出来事。

 相当な無理をしたであろうことは想像に容易い。


「あーちゃん……」


 少し咎めるように名を呼ぶ。

 そんな俺に対して彼女は、ここは引けないとばかりに見詰め返してきた。


「確かにわたしが提案したこと。でも、お義父さんも強く望んでくれた」

「父さん、も……?」

「そう。落ち込んでるしゅー君を元気づけたいからって」

「いや、それは――」

「今のお義父さんの夢は、しゅー君の活躍を見守っていくこと。自分が少し頑張ることで、その助けになるなら何だってするって言ってくれた」


 脳卒中で倒れ、半身麻痺となった人間がボールを18.44m届かせることは少し頑張るなんてレベルではない。

 父さんの後遺症は利き腕ではない左半身の麻痺だったものの、たとえ右で投げるにしたって踏み出す足である左足の安定が必要不可欠だ。

 実際、動画の中の父さんは最初「投げる」とはとても言えない投げ方だった。

【成長タイプ:マニュアル】であるが故に、元々運動が全く得意ではなかったせいというのもあるだろう。

 とにかく適切なリリースポイントでボールを放すことができない上に踏ん張りが利かず、キャッチボールの相手を務める金田さんの方に真っ直ぐ行かない。

 そんな状態からのスタートだった。


『まずは今の状態での最善のフォームを追求しましょう』

『とにかく18.44m投げるための投げ方です。不格好かもしれませんが……』

『構いません。元々、スポーツで、格好をつけられる、人間ではない、ですから』


 それが徐々に、本当に少しずつではあるものの改善されていく。

 その過程がバックスクリーンに映し出されていく。

 勿論、球速は全く出ていない。

 フォームも野球選手の理想的なものとは程遠い。

 ピッチングとしては小学生のそれにすら劣るだろう。

 それでも最終的には。

 しっかりと18.44m先にいる金田さんまでボールを届かせていた。


『うん。これなら、秀治郎に、恥をかかせずに、済みそうです』

『いえ、これが第一歩です。マウンドからだと大きく感覚が変わりますから』

『本番まで後少し。次はそこに慣れていきましょう』

『今度はキャッチャースボックスで座って受けますね』

『……分かりました。お願いします』


 実際、マウンドの傾斜に慣れてない人が無理に投げると怪我をする恐れがある。

 始球式で骨折した人もいるぐらいだ。

 そうはならないように、何よりも、ストライクゾーンに正確に投げ込むために。

 父さんは更に、プレートの上から何度も何度も投球練習を続けていく。

 平地で作り上げたフォームを基に、マウンドに合わせて微調整を加えながら。


 その真剣な姿に込み上げてくるものがあった。

 プロ野球選手への憧れを満たすための代償行為であるかのように偽装する台本とは裏腹に、あれはどこまでも純粋な俺のための努力だ。


『こうして今日。野村秀治郎選手との親子バッテリーが実現するに至りました』


 映像が終わり、仁科さんがそう締め括る。

 それを合図とするように。

 今年から泉南さんと共にチアリーディングチームサフフラワーガールズに入団した佳藤さんが、マウンド上で父さんとお義父さんにボールを渡した。

 父さんがプレートから、お義父さんは少しズレた位置から同時に投げるようだ。


「しゅー君、構えて」

「あ、ああ」


 杖を母さんに預け、堂々と立つ父さんの姿に胸がいっぱいになりながら。

 あーちゃんに促されるままキャッチャースボックスに座ってミットを構える。

 マウンドから俺を真っ直ぐに見据える父さん。それを見守る母さん。

 何とも新鮮な光景だ。


 そして父さんが、ぎこちない動きで投球を始める。

 とにかく俺のところまで届かせることだけを考えた投げ方だ。


 ステップは傾斜を考慮に入れた最小限。

 とにかく僅かな時間だけでも左足で踏ん張ること。

 それだけを優先させている。

 上半身は動かすことができる範囲で左側を最大限に利用して反動をつけて。

 右腕の可動域と手首のスナップをフル活用するようにして……投げる。


 大きく弧を描く緩い球だった。

 それでも、それは確かに俺に向かってくる。


 ――パンッ!

 …………パシッ。


 同時に投じられていたお義父さんのそこそこな球は、あーちゃんがいい感じの音をうまく鳴らしてキャッチした。

 それと比べてしまうと父さんの球はひたすらに遅かった。

 キャッチャー専用のいくつかのスキルを以ってしても、今一大きな捕球音を作り出すことができないような有様だった。


 しかし、それでも。

 ……重い。

 間違いなく俺のキャッチャーミットまで届いたそのボールは、正樹や磐城君、大松君のストレートよりも重く感じられた。


「しゅー君?」


 当然、物理的には全くあり得ない話。

 だが、そう勘違いした理由は自明だ。

 父さんの想いを確かに受け取ったから。

 その重さに、俺はしばらく捕球姿勢のまま動くことができなかった。

 ただ、ミット越しにボールを固く固く握り締め、噛み締めるように瞑目する。


「秀治郎」


 そんな俺を呼ぶ声に、ゆっくと目を開ける。

 すると、目の前に父さんが立っていた。

 どうやら母さんから受け取った杖を突いて、マウンドから歩いてきたようだ。


「父さん……」

「俺達は、何があっても、秀治郎の味方だ。誰が、否定しようとしても、その事実が、変わることは、絶対にない」


 今生で長い時を共に過ごしてきた両親のことだ。

 2人なら、それぐらいのことは言ってくれる人間だと頭では理解していた。

 ただ、俺がそれを一点の曇りもなく受け入れられていたかと言うと自信がない。

 前世のこともあり、俺のことで迷惑をかけたくない気持ちが強かったからだ。


 しかし、父さんと母さんの愛情はそんな遠慮を軽く上回ってきている。

 理解を超えて、心で分からせられた。

 これはもう、お手上げだ。

 どんな雄弁家の美辞麗句も、この1球に勝るものはないだろう。


「お前がいたから、俺は頑張れる。うまく動かない、この体が、どれだけもどかしくても。苦しくても。希望と共に、明日に向かって、生きることが、できる」

「……うん」

「お前の重荷に、なるかもしれない。それでも秀治郎、お前が俺達の夢、なんだ」

「うん」

「お前を応援、してくれてる、ファンの皆さんも。お前の活躍に、夢を見てる。お前は、その期待に応えていける、そんな選手だと、俺達は信じてる」


 父さんの後ろでは、母さんも優しげな視線を俺に向けている。

 同じ気持ちだと【以心伝心】がなくとも伝わってくる。

 確かに期待は重荷かもしれない。

 だが、あーちゃんが一緒に背負ってくれて尚、心に残る罪悪感とは対極にある。

 つり合いが取れれば、いくらか楽にもなるだろう。

 両手にそれぞれ荷物を持った方が歩きやすいようなものだ。

 だから、父さん達がくれたその重荷はありがたく受け入れる。

 そして――。


「父さんと母さんが誇れるような、日本中の人に夢を見せられるような選手でいられるように、俺はこれからも走り続けるよ。この先どんなことがあっても」


 やるべきことは元より明確。

 そのための原動力を新たに得た。

 後ろを振り返ることはいつでもできる。

 その時まで前だけを見て、ひたすら突き進んでいくとしよう。


「……今日はありがとう、父さん。母さんも」

「ああ」

「ええ」

「あーちゃんも」

「ん。サプライズ成功。ぶい」


 頬の近くでVサインを作るあーちゃん。

 主役を奪われた上に影が薄くなってしまったにもかかわらず、満足そうな表情を浮かべているお義父さん達にも心の中で感謝する。

 こうして父の日のファーストピッチセレモニーは、最後には俺も含めて和やかな雰囲気を作りながら終わりを告げたのだった。


 ……やりにくいだろうなあ。

 奈良キーンディアーズは。

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