132 呼び方練習
「しゅー……君、じろう」
「いや、それはさすがにおかしい」
頓珍漢な呼び方をするあーちゃんに対し、ちょっと強めに突っ込みを入れる。
すると、彼女は「むぅ」と少し不満そうな声を上げて微妙に唇を尖らせた。
晴れて企業チームとなった村山マダーレッドサフフラワーズ。
その最初の練習を終えて立ち寄った鈴木家のリビングでの一幕である。
何をやっているのかと言えば、俺の名前を呼び捨てにするトレーニングだ。
村山マダーレッドサフフラワーズの皆の前で挨拶をした時、あーちゃんは社会人として大分アレな自己紹介をしてしまった。
視察に来ていた、と言うか、俺達を現地に運んだ明彦氏はそれを諸に目撃。
これは矯正せな(アカン)と社会人っぽく取り繕う練習をさせているのだった。
しかし――。
「しゅー……ジロウ君……?」
「いやいや」
見ての通り、経過は芳しくない。
「……茜、嘘でしょう?」
「さすがに冗談、だよな? 茜」
俺達のやり取りを見守っていた加奈さんと明彦氏も呆然とした表情を浮かべる。
正直なところ、俺も何の冗談かとは思った。
だが、【以心伝心】によると、あーちゃんは本気も本気だった。
ふざけているとしか思えないが、間違いなく真剣そのものである。
呼び捨てぐらいだったら、言葉遣いを全体的に矯正するよりは簡単だろう。
そんな考えの下、サクッと攻略できる低難易度の課題として掲げた内容だった。
そこから徐々にステップアップさせていくつもりでいたのが……。
実際はこの有様。
初手からいきなり躓いてしまっていた。
「しゅうじろう。さん、はい」
「しゅ、しゅー、しゅーしゅー……」
「ボイラーか何かじゃないんだから」
「むむむむ」
深く考えずに文字の通りに発音する。
ただそれだけのことだろうに、何故かうまくいかない。
どうやら、呼び捨てにとんでもなく強烈な違和感を抱いているらしい。
しっくりこなくて気持ちが悪い様子で、変顔になってしまっている。
「茜、そんなことではいけないわ。恥をかくのは貴方だけじゃないのよ?」
「そうだぞ? 下手をすると、一緒にいる秀治郎まで変な目で見られかねない」
「ぐぬぬぬ……」
諭すような両親の言葉に反論できず、呻いて黙り込むあーちゃん。
そんな彼女に視線が集まり、しばらくテレビの音だけがリビングに響く。
やがて、あーちゃんは肩を落として嘆息気味に口を開いた。
「……頭では、分かってるつもり。けど、しゅー君のことを呼び捨てにするのは何だか他人行儀な感じがして凄く、凄く嫌」
まあ、この呼び方で10年以上やってきた訳だからな。
あだ名がデフォになっているところで急に変えると変な感じがするのは分かる。
とは言え、ここまで拒絶反応が出るとは思わなかった。
習慣化し過ぎてしまったが故の弊害と言うしかないな。
「なら、秀治郎君に呼び捨てで呼ばれるのも嫌?」
と、加奈さんがあーちゃんに尋ねながら、視線で俺に合図を送ってくる。
そんな母親の言動を見て、あーちゃんもまたこちらを向く。
俺の方も視線を移したので、丁度彼女と目と目が合う。
加奈さんの意をくんだ俺は、あーちゃんと見詰め合ったまま――。
「茜」
なるべく自然な感じで彼女の名前を呼んだ。
すると、あーちゃんはビクッと体を震わせてから緩々と顔を赤くした。
それから何やらもじもじし始める。
彼女がどんな感情を抱いているか、誰が見ても一目で分かるだろう。
嬉しくも恥ずかしいというようなリアクションだ。
「どう? 悪くないでしょう? 秀治郎君だって、茜に呼び捨てで名前を呼ばれれば似たような気持ちを抱くはずよ?」
加奈さんは「ね?」と俺を見る。
そこで普通に同意を求められても、ちょっと反応に困るんだけども……。
まあ、それも悪くはないとは思うので「はい」と素直に頷いておく。
しかし、あーちゃんからは困ったような感情が伝わってくるのみだった。
加奈さんの方も思っていた反応と違うといった風。
俺が喜ぶと言えばホイホイやるだろうと考えていたのかもしれない。
加奈さんの中のあーちゃん像……。
ま、まあ、それはさて置き。
「俺の気持ちってよりは、あーちゃん側の意識の問題が大半みたいですね」
「意識……?」
俺の言葉に少し考え込む加奈さん。
しばらくして思考がまとまったのか、1つ頷いてから続けた。
「だったら、そこを変えてしまえばいいんじゃない?」
「と、言いますと?」
加奈さんの提案に対し、その詳細を問う。
他人行儀な感じがして嫌という彼女の意識をどう転換するのか。
「結局のところ問題の根幹は秀治郎君自身を呼ぶ時じゃなくて、他の人に対して秀治郎君の名前を出す時にあだ名を使ってしまうこと、でしょ?」
人差し指を立てて告げる加奈さんに頷く。
それはそう。
周りの目さえなければ、別にしゅー君のままでも構わないのだ。
そして、そこさえ解決することができれば、他は徐々に改善していけると思う。
実際、あの挨拶の時も俺の注意を受けて丁寧語をつけ加えていたからな。
申し訳程度のものだったけれども。
さすがに義務教育を受けてきたのだ。
一般常識がインプットされていない訳ではない。
状況に応じてそうすべきこと自体は理解しているはずだ。
取り繕うべき状況の判断基準が若干ズレているだけで。
いずれにせよ、初手最難関だった呼び捨てよりは遥かにマシに違いない。
そう考えていると、加奈さんが妙手を授けるかの如く仰々しく言葉を再開した。
「なら、茜。そういう時は、頭の中で『夫の』とつけ加えてから秀治郎君の名前を呼び捨てにしなさい。それこそ自分の伴侶を他の人に紹介するように」
難しい顔をしていたあーちゃんは、加奈さんの指示にピクリと反応を示す。
「親戚とかでもない赤の他人に対しては、お母さんもお父さんの話をする時は夫の明彦とか単に明彦と呼んだりしているわ。それが一般的な夫婦というものよ」
「む……成程」
夫婦歴20年以上のベテランである加奈さんから告げられたその理屈は、どうあれ、あーちゃんにはしっかりと響いたようだった。
横で聞いてる俺は、外堀をコンクリートでガッチガチに固められている思いだ。
いや、まあ、過去を振り返れば自分で率先して埋め立てていた気もするし、今更ちゃぶ台返しをしようとは全く思っていないけれども。
「じゃあ、簡単な練習から。こちらは夫の秀治郎です。はい」
「……こちらは、お、夫の、秀治郎、です」
「あーちゃん、顔真っ赤」
茹でダコみたいになっているのがおかしくて、ついついからかってしまう。
「~~~」
あーちゃんは声にならない声を上げながら、俺の腕をペチンと軽く叩いた。
新鮮な反応で、可愛らしい。
恥ずかしさが限界突破しているようだ。
加奈さんも物凄くニコニコしている。
娘の珍しい姿を見られて嬉しいようだ。
明彦氏は少々複雑そうだが、男親とはそういうものか。
「秀治郎君も」
満面の笑顔で促す加奈さん。
何を求めているかは分かるが、明彦氏の手前ちょっと……。
とも思うが、ここで乗らないのもノリが悪い。
「こちらは妻の茜です」
あーちゃんの手を取って淀みなく告げる。
すると、彼女は限界の向こう側のそのまた向こう側まで行ってしまったのか、涙目になって俺に頭をぐりぐりと押しつけてきた。
苦笑しながら受けとめる。
前世の俺なら絶対にできないような真似だ。
これもまた、積み重ねた時間と信頼のなせるわざというものか。
ステータスに裏打ちされた自信もあるだろう。
ともあれ。
「ふふっ、今日はもう無理ね」
極大の羞恥心に襲われたあーちゃんは錯乱状態。
と言う訳で、初日のトレーニングはこれでお開き。
その数日後。
何度目かの練習を経て。
「じゃあ、茜。最初の挨拶をやり直してみてくれ。お父さんに向けてな」
「鈴木茜です。ポジションは(夫の)秀治郎の専属キャッチャーですが、(夫の)秀治郎がピッチャーをしていない時は、セカンドやショートを守っています」
突っ込みどころは多々あるものの、大分マシにはなった。
俺の名前の前に妙な間があるのはご愛敬。
こうして、あーちゃんはほんの少しだけ社会人に向けて成長したのだった。
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