第一章 乙女ゲームの世界へ転生したら修羅場でした。

第1話 最後の晩餐

 ――私は、夫が嫌いだ。



「それじゃあ、食べましょうか」


 そう言って私は、食卓の向かいに座っている夫に、作り物の笑顔を向けた。


 真っ白なテーブルクロスの上には、豪華な食事たちと、二つのシャンパングラスが仲良く並んでいる。


 夫の好きな、シーザーサラダ。

 夫の好きな、ジャガイモの冷製スープ。

 夫の好きな、鯛のカルパッチョ。

 夫の好きな、ほうれん草のキッシュ。

 夫の好きな、ローストビーフ。

 夫の好きな、ガーリックライス。


 どの料理も、今日という特別な日のため、私が腕によりをかけて作った一品だ。


「まずは、乾杯しよう」


 夫は、私の言葉に笑顔で答えると、食卓の上に置かれていたシャンパンへと手を伸ばした。

 【天使のほほえみ】と記載されたラベルには、愛らしい天使の絵が描かれている。私たちの披露宴で振る舞ったシャンパンだった。夫が今日のために、わざわざ買い付けてくれたのだ。

 再びこのシャンパンを別の意味でのお祝いに飲むことになるとは、あの頃の私たちは考えもしなかっただろう。


 夫がシャンパンの栓を抜き、私のグラスに注いでくれる。

 グラスの底から上へと途切れることなく湧き続ける小さな気泡。これこそが、お祝いの席でシャンパンを飲む所以だ。


「何に乾杯するの?」


「うーん……俺たちの未来に、とか、ちょっと臭いかな?」


「……いいんじゃない。それじゃあ、〝私たちの未来に〟」


 シャンパングラスを手に掲げて、私たちは乾杯をする。


(これで全てが終わる……)


 食卓の端には、一枚の紙切れが置かれていた。

 〝離婚届〟と書かれたその紙には、既に私と夫の名前が記入され、印鑑も押されている。明日、この紙を役所へ提出すれば、全てが終わる。

 今日が〝最後の晩餐〟というわけだ。

 ここまで漕ぎ付けるまでは長い道のりだったが、終わる時は、なんともあっけない。


(〝未来〟……ね。

 残念だけど、あなたの〝未来〟は、もう来ないわ……)


 私は、事前に夫のグラスにだけ毒を塗っておいた。

 この後のことは、全て計画通りだ。

 動かなくなった夫を寝室へ運び、ベッドへ寝かせた後で、サイドテーブルに飲みかけのシャンパンと薬を置く。

 離婚を苦に自ら毒を飲んで自殺した、という風を装うのだ。

 そして、朝目が覚めて、既に冷たくなった夫の遺体を前に、泣き叫ぶ妻を私が演じる。


 もちろん、真っ先に私が容疑者として疑われるだろうけれど、私がやったという証拠はない。

 そこに、夫直筆の遺書が出てくる。内容は、妻である私への謝罪と後悔の念を綴ったものだ。元々は、夫が私へ向けてしたためた謝罪の手紙であったのを、私が遺書として改竄したものだが、これを見た者は、夫の自殺を疑わないだろう。


 そもそも離婚届けがあるのに、私がわざわざ夫を殺す必要などないのだ。

 私は、夫に離婚を迫っていた側なのだから。そのことは、弁護士や友人らが証人になってくれるはずだ。

 やがて私の容疑は晴れ、世間は、私のことを悲劇の未亡人という目で見る。


(あれ……なんだか視界が暗いわね……)


 ふいに眩暈がした。

 最初は、アルコールに酔った所為かと思ったが、だんだんと手が痺れて、身体に力が入らなくなってくる。

 持っていたグラスを落とし、床からガラスの割れる音が聞こえた。


 喉が焼けるように熱い。


 苦しくて、息が出来なくて、誰にともなく伸ばした手の先に――夫が笑っているような気がした。


(ああ……あなたもだったのね……)


 気がつくと、私は、床に倒れていて、助けを求めてもがいた。

 最後に見たのは、夫が私を苦悶の表情で見つめる姿。


 ――――暗転。


 そこで私の意識は永遠に途絶えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る