あなたはきらい?
逢瀬くんとわたしは夫婦という間柄だけど、セックスどころかキスすらしたことがない。
その事に特に不満を抱いたことは無い、そもそも彼はわたしに性の匂いがする触れ合いは求めていないのだろう。
逢瀬くんが求めているのは自分を支え導いてくれる親代わりになる女性であって、庇護を必要とする非力で可愛らしい女の子ではない。
今日は素晴らしく天気のいい土曜日の朝だ。
窓から見える空には一寸の陰りもなく、目に映るものは全てが光に包まれていた。
背の高いビルがひしめき合い、合間を縫うように植えられた豊かな緑、遠くで小さく見える東京タワーさえも太陽の光で誇らしげに輝いている。
わたしは湯気の立つマグカップの縁を指先でなぞりながら思案に暮れていた。
逢瀬くんがアイドルを引退したばかりの時は「引退祝い」と称して二人であちこち食べ歩きに出かけたもので、このマグカップは旅先で見つけたお土産屋さんで購入した品物の一つだ。
白地のマグカップには葛飾北斎の富嶽三十六景の一図である神奈川沖浪裏が印刷されている。
ずっと無言だった逢瀬くんが箸を置いて、目の前の席を立つ。
二人暮らしにしては巨大な炊飯器から白米をよそう手は、買い出し以外では引きこもってばかりいるせいで骨が透けるように白い。
形の良い鼻梁や、青空を閉じ込めたような双眸、黒いワイシャツに包まれただけの薄くて広い背中。
逢瀬くんと過ごした年月や彼の性格を考えれば、色気なんてとっくの昔に枯れ落ちていても良いはずなのに、時々そばにいると嫌な汗が出るほどの緊張感を覚える。
張間流星が初のライブ出演をすることになった日、自動販売機で購入した飲み物を持って楽屋に戻ったわたしの前で、女性スタッフの一人が逢瀬くんの腕にまとわりついていた。
「ねえ、張間流星くん、だっけ?かっこいいねー。連絡先交換しない?あたし、ここで働いて長いからさ、コネあるんだよー」
彼女の笑顔とは対照的に、逢瀬くんは珍しく無関心な眼差しを天井に向けていた。
わたしが嫌がる女性スタッフを引き剥がしても眉一つ動かさず、まるで能面のようだ。
その後、彼女の姿を職場で見ることは無かったが、なぜ彼女に対して逢瀬くんがあんな素っ気ない態度だったのか少し後になって察した。
彼女がわたしとほとんど年の差がない女だったからだ。
逢瀬くんは傲慢とも言える盲目的な求愛行動や性の匂いがする独占欲が本当は嫌いなのだろう。
どんな年上にも親に懐く子供のような仕草をする彼は、その実全てが周囲の求める姿を演じているに過ぎないと気づいた瞬間、ゾッとした。
彼を、支配したい、甘やかしたい、慈しみたい。
それらの衝動は、過去と現在と未来のように別物のフリをしながら、実は一瞬の中にあった。
わたしはわたし自身が、彼に抱いてしまう魅力的な異性に対しての女性特有の感情全てに嫌悪感がある。
それは、張間流星というビジネスを成功させる為に、わたし自身がもう十年以上もわたしが女であることを見ないふりをして生きてきたからだと思う。
わたしはコーヒーを一口飲み、大根の味噌汁を啜る逢瀬くんに話しかけた。
「ねえ」
遠慮がちに呼んでみたつもりだったが、逢瀬くんはビクリと大袈裟に肩を揺らした。
森で熊に出会った人間のように驚いている。
亀甲汁椀を四角いテーブルに置くと、やがて見るともなくぼんやりと彼は目をさ迷わせた。
「今日は、お昼は外で食べるから。弟の肯(さき)と会わないといけないの。逢瀬くんは、今日のお昼どうするの?たまには出前でも取る?別にいいわよ、たまにはそういうのも」
「そう……」
逢瀬くんは口をへの字に曲げて、眉間に皺を寄せる。
同じ椅子に座っていると背が高い彼とは身長差が出来て、やや上から見下ろしてくる青色の大きな瞳。
昔見た時はブルーハワイのシロップみたいな甘い色をしていたのに、今は完全燃焼の炎みたいにグツグツで、あまりに熱い視線で焼けた肌の焦げた匂いがしそうだった。
「なに、文句でもあるの?」
「そういうんじゃないよ。楽しんできてね」
嘘吐けよ。
「……あっそ」
歓迎するような言葉とは裏腹に怒りに満ちた逢瀬くんの目つき、いつまでも本心を口にしてくれない彼の態度に、わたしはもうずっと前から嫌われていたのかもしれないと思った。
わたしは温くなったコーヒーを飲み干して、それから逢瀬くんと会話らしい会話はせずにいる。
シーツを洗って、押し入れから去年買った洋服を引っ張り出したり、本棚を整理してるうちに約束の時間になった。
十二時頃に肯からショートメールが来たので、わたしはストライプのワンピースに薄手のカーディガンを羽織って、最寄り駅に向かう。
五月とはいえ、風の吹く真昼間の都会の空気はわずかに乾いていた。
駅前にいた肯は黒いリュックを背負って、緑のジャージという大学生じゃないと到底許されないような気が抜けた格好をしている。
「肯」
わたしが呼びかけると、彼はニィッとサメのように鋭い歯を見せて笑う。
「久しぶりだ!ねえさん!会えてよかった!」
こちらの輪郭まで消えてしまいそうな輝かしい笑顔のまま、彼は駈けてきた。
「まあ、たまにはね。どこ行こうか?ファミレスにでも行く?」
わたしが提案すると、肯は「良き良き!」と跳ねるような相槌を打つ。
駅から並んで歩いていたはずが、平衡感覚が緩い肯は気づいたらわたしとは反対側の歩道を歩いている。
近所のファミレスに入ると、ようやく今朝の暗い気持ちが切り替わった気がした。
天井の照明の光がピカピカ反射した猫型配膳ロボットが複数稼働している。
四人がけの空いている席に腰掛け、テーブルに備え付けの注文用パネルを操作した。
肯はスマホでこの店のクーポンを探している。
わたしが二人分の注文を済ませると、肯は店内をくるくる動き回る猫型配膳ロボットを獲物を狙う猫のような横顔でじぃっと見つめていた。
テーブルに載せられた手のひらがそわそわと動いている。
「ねえさん、おれ、あのロボット、撫でたいな……」
「え、撫でたら?別にダメじゃないでしょ」
「まずいまずい。あまりの可愛さに一家に一台欲しくなるかもしれない」
「それは、流石に……いくらするのあの子」
「んー、知らんな。調べるか」
肯は両手でスマホを掴んでフリック入力でキーワードを打ち込むと、検索結果を見たらしく落ち込んだ様子でテーブルに項垂れた。
「高い、高いだよ、ねえさん」
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