母親は二人もいらない

ハビィ(ハンネ変えた。)

本編

あなたは旦那

「ちょ、是枝(これえだ)ちゃん。あの人カッコよくない……?レベル高い」

「んー……?うおっ、マジだ。というか、なーんか見覚えあるような……」

「わかるー。すごく思ったソレ。四年前に引退したアイドルのにすごく似てる」

「よく覚えてるね。違ったらゴメンだけど、もしかして本人じゃない?」

「えっ!?」

一年前、真夏の日差しがアスファルトを眩しく染めて、あたりは息苦しいほどの熱気が立ちこめていた。

色の抜けた紫陽花が街のあちこちで萎れている。

話し声がした方を見ると、近所にある私立高校の制服を着た二人の女の子が居た。

ペアルックだろうか、お互いの学生鞄には同じデザインのマスコットが複数つけられている。


わたしはとっさに、こういうキャラクターグッズを山ほどつけてる女の子って基本的に頭良くないよな、と思った。

わたしの隣にいた逢瀬(おうせ)くんは、女の子達に向かってにっこりして小さく手を振る。

彼は外にいる時は大抵気にも留めず、目が合った時には相手に笑顔を向けた。

すると相手の顔にはぱっと炎が燃え上がる。

彼の営業スマイルは現役時代から一切の魅力を損なうことなく、健在だった。

思わぬファンサービスに、ぽかんと口を開けて一時停止した女の子達は、やがてキャーキャーと黄色い声をあげる。

わたしは眉を顰め、暑さによる苛立ちが背中を押して、逢瀬くんの腕を掴んだ。

宝石のオブシディアンを溶かして絹に染み込ませたような黒髪と猫のように怜悧な瞳がこちらを見つめる。


「ちょっと、あなた、化粧しろとまでは言わないけどさ、マスクくらいしたらどうなの……」

わたしの声は自分が出すつもりより、ずっと冷ややかになった。

最初、逢瀬くんは何を言われたか理解出来ないのか、ぱちくりと目を瞬かせる。

やがて、可笑しそうにケラケラ笑い出す。

「ははっ、前は素顔のままが一番素敵だって言ってくれたのに?まぁ、元芸能人の旦那なんてやっぱり面倒臭いよねー」

逢瀬くんについては全てを自分が見届けて、目を外すことがないようにしようと思っていたけど、いつまでたっても目の届かない部分が現れてくる。

どうしても目を逸らしていた場所の多さをはっきり直視しなければならない。

彼を否定したい気持ちが強く働き、何か言い返そうとしたが、言葉は出なかった。


無言で居られるよりは、言葉鋭く責められる方がずっと楽だ。

透き通った青空から降り注ぐ、夏の日差しが街全体を覆っている。

わたしが手を離すと、逢瀬くんは歩き出した。

人通りの盛んな商店街。

古びたアイスクリーム屋の前を通ると仄かに香るバニラの香り。

薄暗い隅の席で休みでも英単語帳を読み込む、受験生をしていた弟の姿が脳裏に浮かんだ。

わたしの鼻腔に今度は香ばしいパンの匂いが流れ込んでくる。

窓ガラスの向こうに、沢山のくるみパンが並んでいた。

よく大学生時代の近所のコンビニで買っていたことを思い出す。

街行く人は、逢瀬くんが元人気アイドルだと気づくことなく、通り過ぎる。


わたしは逢瀬くんの背中を追いかけた。

逢瀬くんの方が頭一個分ほど背が高く、足の長さも違うので歩幅が合わず、後ろから着いて行くとしょっちゅう距離が開いてしまう。

なので、逢瀬くんは時々立ち止まってわたしが来るのをぽつんと一人で待っていた。

道の先でじっとわたしの方を見て、迎えに来るのを待っている。

わたしは一時的にでも彼に追いついて、肩を並べて歩くが、また距離が開いて置いていかれてしまう。

わたしと彼の関係が夫婦ではなくて、アイドルとマネージャーだった時からそれは変わらなかった。

地方で高校生をしていた逢瀬くんをスカウトして、家族と引き離して都会まで連れ出して、アイドルに仕立て上げたのはわたしだ。


そして、トップアイドルの座から引きずり下ろしたのもわたしだった。

逢瀬くんは、きっとわたしを憎んでいる。

その証拠に、彼はこんな暑い日でも長袖を脱げない。

袖の下にはいくつもの自傷跡があって、結婚した後も彼の自傷癖が治まることがなかった。

わたしが仕事に出てる時には、精神薬を飲みすぎて部屋でよく動けなくなっている。

夜中になるといきなり泣き出したり、かと思えば気が狂ったように謝罪を繰り返す。

逢瀬くんは、わたしからしたらとても生きづらそうに見えた。

彼は、本当は死にたいのだと思う。

それでも、わたしは彼に生きていて欲しい。

そして、溢れんばかりの幸せを享受して欲しかった。


わたしは、いつまでも不服そうな男の態度を見れば見るほど、心の底で狼狽させられる。

先程の嫌味だってそうだ、あの手の発言には思い出しても顔が赤くなるくらいイライラさせられている。

逢瀬くんはわたしの気持ちをよく知っていて、すっかり信用して落ち着いているのに、わたしは少しも逢瀬くんが見えてこない。

わたしばかりが、無闇矢鱈と吃驚したり、疑念を抱いたり、躊躇しているのが、恥ずかしくて腹立たしい。

「逢瀬くんは、……」

「なーにー?甘奈(あまな)ちゃん、どぉしたの?」

「いや……」

あれほど苛立っていたのに、綺麗な彼の顔を見るとやはり苛立ちは薄れた。


作り笑いだとか、目が笑っていないだとか、偽物の笑顔に関連する表現は世に溢れている。

目の前の男がわたしに向ける笑顔はそれら全部の形容に当てはまり、しかし表現しきるには少し足りない。

「甘奈ちゃんって俺のこと好き?愛してる?幸せになって欲しい?」

「……愛してるよ。誰よりも愛してる。わたしはあなたの幸せだけを願ってる」

「……そっかあ」

ハリボテのような空っぽな笑顔のまま、逢瀬くんはわたしに抱きついてきた。

人の行き来が絶えない街中で抱き合う成人二人組という絵面は夫婦だろうと狂っている。

こんなもんは学生カップルの特権だろう。

「なに……ちょっ、いきなり……」

「うん……うん。俺ね、甘奈ちゃんのこと、すっごく好きだよ。甘奈ちゃん、甘奈ちゃん」


「あ、そう……」

「甘奈ちゃん。俺は、幸せになるよ。頑張るからね。大好き」

「……、…」

別に、頑張って欲しいわけじゃない。

わたしと一緒にいるのが不満ならハッキリそう言えば良いのに、逢瀬くんは遠回しにわたしの力不足を責めてくる。

彼が幸せになれないのは、やっぱりわたしのせいなのだろう。

「甘奈ちゃん。愛してる」

逢瀬くんが本心からそう思って言ったのでないことは、疑ってみるまでもない。

「俺は、甘奈ちゃんの理想の旦那さんになるからね」

いっそ、わたしが全て悪いのだと責めて欲しかった。

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