第35話 懐かしい君へ

 ほたるの指先から放れた薄青いコインは、スッと投入口に吸い込まれていった。

 一瞬だけ投入口が光り、電話機からかすかな作動音がしてきた。

 高エネルギー結晶のコインが、この電話機に再び命を吹き込んだのだ。

 ほたるは祈るように目を閉じながら、受話器に耳を押し当てる。


 プツッ。

 プツッ。


 ずっと前に聞いたことのあるかすかな反応に、ほたるは期待と不安に胸を高鳴らせながら、受話器を押し当てた片方の耳に神経を集中させる。

 そして繋がったような音がした。


「テル!」

「ご利用ありがとうございます。こちらは銀河コミュニケーションサービスでございます。お客様のお掛けになった回線は現在使われておりません」


 淡々とした無機質な声に、ほたるはがっくりと肩を落とした。

 機械的なアナウンスはまだ続いていた。


「お客様の通話デバイスに一件の着信がございます。メッセージをお聞きになりたい場合は1を、弊社最新サービスを使ってタイムリープ通話を行いたい場合は2を選択してください」


 ほたるは耳を疑った。

 恐る恐る2の穴に指を入れてぐるりとダイヤルを回す。

 小刻みに震える指を放すと、ダイヤルはジーという音をさせながら戻っていった。

 そして音声案内の内容が変化した。


「ご利用ありがとうございます。弊社最新サービス、時空間転送コミュニケーションを開始いたします」


 ピンクの電話の投入口が再び発光した。

 何かが電話の内部で起動したような低い音がした。


 プツッ。

 プツッ。


 そして電話は少女の願いに応えるかのように、遠い銀河の星と再び繋がった。


「もしもしほたる?」

「テル!」


 ほたるは目頭を熱くさせながら懐かしい声を聴いた。


「どうなってるの? あなたはもう……」

「えっ? どういうこと?」

「あ、でも元気そうで良かった」

「あれ、君ほたるだよね。なんだか声が少し大人びてる様な……」


 そうか。


 ほたるは何となく理解した。


「テルはあの日の夕方電話をくれたテルなんだよね」

「え? 昨日もしたけど」

「ごめんなさい。私はあの時あなたからの電話を取れなかったの。今はあれから三年経ってるの」

「つまり君は今、十五歳なんだね。でも三年も通話をタイムリープ転送なんて出来なかったはずなんだけど」

「さっき新しいサービスが始まったって案内された。それで三年前のあなたとこうして話すことが出来るようになったんだよ」

「そういうことか」


 ほたるは夢中で懐かしいテルの声に耳を傾けた。

 どうしても涙が次から次へと流れてくる。


「でもどうして電話できたの? プルトンが無ければ掛けられないはずじゃあ……」

「コインが出て来たの。タバコ屋のおばあちゃんが保管してくれてて……きっとお父さんが落としてたんだわ」

「そうか、父さんが……本当にそそっかしいな。でも良かった」

「うん。とてもありがたい贈り物だった」


 まだ変声期を迎えていないテルの少し高い声が、ほたるの耳には心地良かった。


「久しぶりだね……」

「うん。君にとってはそうなんだね。僕は昨日話したばかりなんだけど」

「うん……」

「どうしたの? 泣いてるの?」

「悪い? あなたのせいなんだよ」

「ごめん」

「そうだ、テル、私タイム切ったよ。バタフライのテスト合格したんだよ。それに1級の個人メドレーも合格したの」

「本当? 良かったね、ほたる。本当に良かったね」


 ずっと報告できなかった進級テストの結果。

 こんなにも明るい声で喜んでくれる少年。

 長いあいだ隙間だらけだったほたるの胸はいっぱいに満たされた。

 そして少年はあの懐かしい言葉をほたるに届けた。


「今日もお互いのことを一つ言い合おうよ」

「うん」


 ほたるの目からまた涙が溢れだした。


「泣かないで」

「うん」

「ほたる。僕たちにはもう時間はほんの少ししか残されてない。今までずっと隠してきた本当のことを言うよ」

「うん」

「君が好きなんだ。ほたる」


 ほたるは顔をくしゃくしゃにして涙をぽろぽろと流す。


「ほたる」

「うん、知ってるよ」

「えっ? どうして?」

「あなたが私を好きなことぐらいお見通しなんだから。何にも隠せてなかったんだから」

「そうか。まいったな」

「うそ、詩織ちゃんに教えてもらった」

「あ、黙っててって言ったのに」


 ほたるは涙を流し続けながらクスクスと笑う。

 きっと電話の向こうの君も……。


「じゃあ私の番だね」

「うん」

「テル。あなたが大好き」


 三年間胸に秘めた言葉をほたるはそっと告げた。


「本当に? 何だか夢みたいだ……」


 少年の声はとても恥ずかし気で嬉しそうだった。


 ブー。


 ブザーが鳴った。

 あと一分しか話すことが出来ないという合図だった。


「テル、これから手術を受けるんだよね」

「うん。ちょっと怖いんだ」

「いい? 私の言うことを信じて。誰が何と言おうと私だけを信じて」

「どうしたんだい? 何かあったの」

「私のことが好きなんだったら、つべこべ言わず信じたらいいの」

「えっ? うん。それは間違いないんだけど」

「分かった? これから言うことを必ず守って私のために」

「うん。分かった。君のためだったら何だってするよ」

「よしそれでいいわ。馬耳東風ばじとうふうは駄目だからね」

「え? どういう意味?」

「よし。今ので可能性が見えてきたわ。いい、これから言うことを必ず実行して」


 そしてほたるは、かつて叶わなかった願いを言葉に乗せた。


「このあとのテルの予定については、触らぬ神に祟りなしよ!」

「え?」

「いい、触らぬ神に祟りなしだからね。絶対だからね」

「何か理由があるんだね……」


 少年は、ほたるが何を伝えようとしているのかを、察したようだった。


 ブー。


 またブザーが鳴った。

 あと十秒で電話が切れる。

 ほたるは、はやる気持ちを抑えて最後の言葉を口にした。


「テル。きっとまた話そうね」

「うん。また君の声が聴きたい。そしていつか君と……」


 ブツッ。


「テル!」


 途切れてしまった少年の声を追いかけるかのように、ほたるはもう一度名前を呼んだ。


「テルー!」


 そしてほたるは受話器を握りしめたまま、膝から崩れ落ちた。

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