第5話 釣りをした
相変わらずジャカジャカ騒がしい蝉の声で、ほたるは目覚めた。
昨晩、あの少年の話していた難解な説明を反芻しているうちに、自然と眠っていたみたいだ。
それにしても暑苦しい蝉の鳴き声。
庭にあるモチノキに、何匹かとまっているのだろう。
もう少しゆっくり寝かせてよと、体を起こして時計を見ると、もう九時になりかけていた。
「やばい。油断してた!」
朝ご飯を食べ終わったおじいちゃんが縁側でタバコを吸っている。起きたてのほたるが通りがかると声を掛けてきた。
「今起きたのか。よう寝れてええなあ」
「それって軽く嫌味言ってる?
「あいつはわしと朝飯食ってたぞ。食ってないのはおまえだけだ」
「あーあ、またお母さんに嫌味言われる……」
ほたるには小学校三年生の弟がいる。活発なほたるとは違い、少し大人しめな昇は、あまり波風を立たせることのない日常を送っていた。
たいがい弟と比べられて、母親から小言を言われることの多いほたるは、もっと男らしく羽目を外してみろと、普段から弟をけしかけていた。
「なあ、飯食ったらおじいちゃんと釣りに行くか?」
「いいけど。朝のうちだけだよ。昼から約束あるんだ」
「遅くはならんよ。昇も連れて行こうや。ほたるが見てやってくれ」
「えー。あの子、魚触るの嫌がるし、どんくさいから呑み込んだ針外すの私ばっかりなんだけど」
「ええじゃないか。お前が教えてやればそのうち昇も上手くなってくるって」
まあ暇と言えば暇なので、ほたるはおじいちゃんと釣りに出掛けることにした。
昇は最初渋っていたが、餌を付けるのと魚が呑んだ針をほたるが面倒見るのを条件についてくることになった。
祖父の源三は昔漁師をしていたが、今は船を降りて自分の船を持っていなかった。
それでも使わない船を遊ばせている昔なじみの漁師仲間に時々船を借りて、こうやって孫たちを連れて海に出ては釣りをしていた。
おじいちゃんが連れて行ってくれる釣り場は、多少の当たりはずれはあるものの、夕ご飯のおかずが豪華になる内容のものが良く釣れた。
漁船の船上で透明度の高い青黒い水面に釣り糸を垂らし、ほたるは頭一つ背の低い弟に向かってぼやいていた。
「あんた分かってんの? 釣りして餌を付けない、魚には触らないってあり得ないから。私に何でもやらせようっていうその根性直しなさいよね」
「え? でもお姉ちゃんがやってくれるって言うからついてきたんだけど」
「まあ、ええじゃないか。そのうちほたるのを見て昇もやりたくなってくるさ」
「おじいちゃんは昇に甘いわよ。もっと厳しくして」
「ハハハ。わしはお前ら二人ともに甘いって言われるけどな」
そのうちにおじいちゃんの竿に強い引きが来た。
「ほうら。おいでなすった」
ちょっと得意げに、孫二人の前で見事な竿捌きを披露し、あっという間に魚を引き上げる。
「ほたる、タモ頼む」
「うん」
ほたるは水面に姿を見せた見事な石鯛を網ですくったあと、ウンウン言いながら船上に引き上げた。
「いきなりの大物だね。おじいちゃん」
「だろ。尊敬していいぞ」
「それを言わなければ尊敬しちゃうのに」
ほたるの率直な意見に、弟の昇も賛成して何度か頷いた。
「そうだよ。本当に凄い人は背中で語るって聞いたよ」
「成る程。それでわしはあんまり尊敬されてないんか」
二人の孫に諭されて、源三はハハハと笑いながら、見事な石鯛をクーラーボックスに放り込んだ。
「さあ、あと二、三匹釣り上げて帰ろう。ほたるは友達と遊ぶって言ってたな」
「うん。詩織ちゃんと。お昼から自転車で出かけてくる」
「ほんじゃあ、ええの釣れたら一匹持ってってやれ。あの子も喜ぶだろ」
「そうだね。じゃあがんばっちゃおうかな」
源三の言葉に、詩織に喜んでもらえているのを想像して頑張ったほたるだったが、結局この日の釣果はゼロだった。
詩織の家に着いたのは午後二時を周ってからだった。
本当なら一時間前には着いている筈だったのだが、どうしても詩織に一匹釣ってやろうと欲を出したのが良くなかった。
庭先に出て来た詩織に、ほたるは汗を滴らせながら手を合わせた。
「ごめん詩織ちゃん。遅刻しちゃった」
「いいよ。家で待ってたから汗ひとつかいてないし」
「そんでこれはお土産」
ほたるは自転車の荷台に括り付けていた発砲スチロールの箱を、詩織に手渡した。
「おじいちゃんと今朝釣りに行ってたんだ。私が釣ったんじゃないんだけど、お裾分けだよ」
「ほたるちゃんのおじいちゃん名人だもんね。お母さん喜ぶよ。あ、家に入りなよ。オレンジジュース淹れるから」
「じゃあ遠慮なく」
庭に植えられた家庭菜園には立派なトマトと茄子が実っていた。その脇を通り抜けて詩織はほたるを玄関に招き入れる。
二人とも、頻繁に行き来するお互いの家にもう相当馴染んでしまっていて、特にほたるは全く遠慮というものを感じていなかった。
毎年そうななのだが、今年も何日か夏休み中に泊まりに来るのだろう。それは二人にとって恒例のちょっとした楽しみになっていた。
「お母さん。ほたるちゃん来た」
「いらっしゃい、ほたるちゃん。汗ぼとぼとじゃない」
「こんにちは、おばさん。これおじいちゃんが持ってけって」
「あら、また良い型のを釣ったのね。立派な石鯛だわ、これはお刺身がいいわね。ありがとう、ほたるちゃん」
「私はボウズだったの。おじいちゃんと弟が結構釣ったんだ」
「でもありがとう。ジュース淹れるから詩織の部屋で涼んでってね」
「うん。おばさん、ありがとう」
エアコンの効いた詩織の部屋で出されたジュースをがぶ飲みして、ようやく吹き出していた汗が収まってきたほたるは、何をして遊ぼうかと早速相談し始めた。
しかし水泳教室の進級にこだわっているほたるの口からは、そっち方面の話題しか出てこないのだ。
「ホントは学校の近くの川に行って詩織ちゃんと遊ぼうかって思ってたんだけど、ちょっと遅くなったし明日にしない?」
「うん。そうしようよ。どうせなら朝からお弁当持って行こうよ」
詩織の提案にほたるは目を輝かせて、ウンウンと頷いた。
「それいいわ。ちょっとしたピクニックね」
「でしょ。深いところで泳ぎの練習だって出来そうじゃない?」
「そうね。来週の学校の練習までに上手くなってやるんだから」
意気込むほたるに、詩織はちょっとした尊敬の眼差しを向ける。
「すごいね。その向上心はどっから来るの? ねえほたるちゃん、1級目指しなよ。バタフライ通ったら可能性ありありじゃない?」
「へへへ。実は狙ってます。1級は個人メドレーでしょ。バタフライ以外の泳ぎはおじいちゃんのスパルタ教育で自信あるから、何とかなりそうって思ってるんだ」
「じゃあバタフライを何とかしないとね……」
ほたるにとってバタフライこそ目の上のタンコブだった。
そもそも体育の先生もまともに泳げない泳法を、進級テストに持ってくるっていうこと自体がおかしいのだ。
しかし何事にも前向きなほたるは、困難で誰も進級できていないからこそ乗り越える価値があるのだと燃えていたのだった。
「私がタイムを切って、やれば出来るって証明してやるんだから。そんであの馬鹿の矢島の鼻っ柱をへし折ってやるのよ」
憎たらしく罵ってくる坊主頭が、ほたるの頭に浮かんでくる。
大した泳ぎじゃない癖に体力だけは尋常じゃないあいつに、いっつも50メートルのバタフライで負けていた。
「見てなさいよ……」
ほたるはメラメラと闘士を燃え上がらせて、こぶしを握り締めた。
勝つまでやめない性格だと詩織は知っていたので、いつものことと聞き流すのだった。
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