春が近づく雪国にて
紗久間 馨
新しい靴
「ママ、ごめんなさい。新しい靴、汚しちゃった」
学校から帰ってきた息子が、今にも泣き出しそうになりながら彼女にそう言って謝った。
「だから長靴で行きなさいって言ったでしょう」
彼女はできるだけ怒っていないように装って息子に話しかける。
雪国の3月。暖かい日が増えて、積もった雪が解けはじめる。舗装された大きな道路なら乾いていて歩きやすい。だが、除排雪の行き届いていない狭い道や水はけの悪い道に入れば、大きな水溜まりにシャーベット状の雪が混ざってぐちゃぐちゃになっている。日が暮れて気温が下がれば凍り、ツルツルで歩くのが難しいこともある。
そんな中、彼女の小学1年生の息子は新しいスニーカーを履いて学校に行きたいと駄々をこねた。おばあちゃんに買ってもらったばかりで、早く履きたいとワクワクしていた。
「今日、新しい靴を履いて行ってもいい?」
朝のニュース番組で各地の春の便りを見た息子が彼女に尋ねた。
「だめ」と短く答えた。
「もうあったかいし! 雪だって解けてきたし!」
「まだ道が悪いんだから、冬靴で行きなさい!」
そのやりとりを彼女の夫は気にもせずに出かけてしまった。一言でも息子に声をかけてくれればいいのに。
「分かった! 好きにしなさい! どうなっても知らないからね!」
彼女は半ば投げやりになって、息子に新しい靴を渡した。
その結果、びしょびしょに濡れた靴が玄関にある。だから言わんこっちゃない。
濡れた靴下を脱ぐように息子に言い、学校の宿題をさせた。いつも文句を言うくせに、今日は素直に従った。反省はしているらしい。
彼女は濡れた靴の水気を拭き取り、ベランダで干すことにした。窓の向こうでは太陽が西へと傾いていっている。今日もまたモヤモヤとした気持ちで終わるのかと思うとため息が出てしまう。
「ただいまー」と機嫌の良さそうな夫の声が玄関から聞こえてきた。お酒を呑んで帰ってきたことは明白だ。息子に「おやすみ」も言えない時間に帰宅することが多い。彼女はもっと子育てに協力してほしいと願いながらも、夫には本心を言えないでいた。
「俺は外で稼いでくるから、お前は家のことを完璧にやっていればいいよ」
夫はそんな考え方の人なのだ。どうしてこの人と結婚したのだっただろう。そんな風に思うことが増えた。
今は道路だけではなく、夫婦関係もぐちゃぐちゃなのである。
春が近づく雪国にて 紗久間 馨 @sakuma_kaoru
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