花をめでる会 2
「あら、でしたらわたくしの方を手伝ってくださいます? 鉢植えが重くて」
アレクシスは背後からかけられたウィージェニーの声に、思わずため息を吐きたくなった。
温室の一件以来、クラリスが怯えていることを、アレクシスは知っていた。
アレクシスも、自分が抑えられずにクラリスを怖がらせたことを自覚している。
――わたしは、あなたとは結婚できません。
あのとき、クラリスの口からはっきりと拒絶の言葉が出た瞬間、アレクシスは自分の心が黒く染まっていくような錯覚を覚えたのだ。
黒く染まった心は、自分から離れて行こうとするクラリスがただただ許せなかった。
こんなに好きなのに、愛しているのに、どうして伝わらないのだろう。
どうしてクラリスはアレクシスから逃げようとするのか。
クラリスがアレクシスへ向ける目には確かに恋情が残っている気がするのに、それはすべてアレクシスの目が都合よく見せている錯覚で、懸念しているように彼女はほかに好きな男ができたのではないだろうか。
感情がどんどんどろどろしてきて、粘度を持ったそれが、心にからみついて蝕んでいくようだった。
好きだからこそそんなクラリスが許せなくて、逃げられるくらいならいっそ強引にからめとってやろうと、黒く染まった心がささやく。
逃げ出そうとするのならば、逃げられなくしてやればいいのだ。
そんな思いに突き動かされて、無理やりクラリスの唇を塞ごうとした。
別れるなんて可愛げのない唇なんて、塞いで奪い取ってしまえばいい。
クラリスが怯えを見せことはわかっていたけれど止まらなかった。
あのとき、ジョアンヌの侍女がやって来なければ――物音を聞かなければ、クラリスが泣こうとどうしようと離してやれなかっただろう。
それを考えれば、あのタイミングで侍女が現れたのはよかったと考えるべきなのかもしれないが、捕らえた侍女を連行するためにクラリスの側から離れる必要があって、その場で仲直りができなかった。
クラリスは、アレクシスがまた強引なことをするのではないかと警戒しているのかもしれない。
送り迎えの馬車の中でも、ぎゅっと小さな体に力を入れて、俯いて縮こまっている。
それは全身でアレクシスを拒絶しているようで、さすがのアレクシスもそんな彼女に触れることはできなかった。
(はあ……。今ならほかの侍女もいるし、クラリスもそれほど怯えないだろうからと思ったのに)
クラリスの作業を手伝いながら、それとなくあの日のことを謝罪しようと思っていたのにと忌々しく思いつつも、顔に笑顔を貼り付けて振り返る。
「構いませんよ。何を運べばよろしいですか?」
相手は王女だ。クラリスに手伝おうといった手前、王女の要望を断ることはできない。
「あの青い鉢を中央に運んでくださいませ」
「かしこまりました」
ウィージェニーの指示で動こうとすると、何故か彼女がアレクシスの腕にそっと手を添えて来る。
まるでアレクシスがウィージェニーをエスコートしているように見えたが、この腕を振り払えば不敬になるだろう。
(この王女の考えていることはよくわからないな)
ここ最近だが、妙に距離を詰めてこようとするときがあるのだ。
(表面上はともかく、グラシアン殿下と仲がいいわけでもないのに、何故……)
ウィージェニーは、表面上はグラシアンと仲のいい兄妹を演じてはいるが、心の中ではグラシアンを煙たがっている。
グラシアンもアレクシスもそれには気づいていて、必要以上にウィージェニーに近づかないようにしているのだが、ここのところ、どうもウィージェニーの方からアレクシスに近づくことが多くなった。
グラシアンの側近であるアレクシスに近づいて、一体どうするつもりなのだろう。
ウィージェニーの目的がわからない以上拒絶はできない。もしウィージェニーの目的がアレクシスの態度をもとにグラシアンを陥れるつもりだったなら、不用意な拒絶は彼女にグラシアンを責める理由を与えることになる。ゆえに、ひとまずは友好的に接するに限るのだ。
くるりとアレクシスに背を向けたクラリスが、侍女仲間のブリュエットとともに飾りつけを行っている。
こうなればもう、アレクシスがクラリスに話しかける機会は得られないだろう。
ちらりと肩越しに振り返ったクラリスの背中は、アレクシスを拒んでいるように見えた。
「アレクシス」
ウィージェニーに言われるまま彼女の手伝いをしていたアレクシスをグラシアンが呼ぶ。
いくらウィージェニーでも、グラシアンに呼ばれればアレクシスを引き留めることはできない。アレクシスはグラシアンの側近だからだ。
面白くなさそうな顔をしたウィージェニーが一瞬後には笑顔を浮かべて、「手伝わせてごめんなさいね」と殊勝なことをいいながらアレクシスをグラシアンの方へ送り出す。
逃げるように速足でグラシアンの元へ向かうと、彼はあきれ顔を浮かべた。
「何をしているんだ。クラリスと仲直りするんじゃなかったのか?」
グラシアンが小声でささやくように言った。
グラシアンはアレクシスがクラリスとぎくしゃくしていることを知っている。人の感情の機微に敏感で、人から話を聞き出すのが得意な王太子を相手にすると、アレクシスには隠し事なんてできない。
グラシアンと二人きりになったときは、最近ではもっぱら恋愛相談ばかりしている気がする。この王太子は側近で友人でもあるアレクシスの恋路が気になって仕方がないらしいのだ。
「婚約者の前でほかの女と仲良くしてどうする。馬鹿なのか?」
「そう言われても……」
ウィージェニーが相手でなければ断れたが、彼女が相手ならば一介の騎士であるアレクシスには断る術がない。
「手伝うにしてももう少し距離を取れ。それともクラリスに嫉妬させる作戦か? 言っておくが、今の状況でそれは悪手だぞ」
「そんなつもりはありませんよ」
「だったらさっさと仲直りして来い」
「……今、忙しそうですから」
「はあ……」
グラシアンが「情けない」と言いながら首を横に振る。
「以前のお前なら、クラリスが忙しかろうとどうしようと、平然と手伝いに行っていたと思うがな」
そうかもしれない。
だが、今のアレクシスには無理だった。
クラリスと喧嘩をしたことはあるけれど、あのように怖がらせたことはないのだ。自分が悪かったと自覚しているからこそ、怯えている彼女に不用意に近付くのは躊躇われる。
「俺は最近、女性の心の中がわからなくなりましたよ」
女性と言うよりはクラリスがだが。
アレクシスがついぼやけば、グラシアンが鼻で嗤った。
「そんなものがわかれば苦労はしない。女性の感情なんて永遠の謎だ」
だからこそ言葉が存在するのだろうといいながら、グラシアンは匙を投げるように手を振った。
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