切り刻まれた花 4

 一回目のクラリスの夜の番の日には何も起きず、他の侍女仲間が夜の番をしていた日も何事もなく過ぎて、クラリスの二回目の夜の番の日が訪れた。

 今日はあいにくの雨だ。

 激しい雨ではないが、夕方から降りはじめた小雨がずっと続いている。


(今日もアレクシス様は来るのかしら……?)


 朝までアレクシスと二人きりと言うのは、今のクラリスの精神衛生的によろしくない。彼への恋心を封印したいクラリスにとって、半ば拷問のような時間だ。好きな人を好きでいられないのが――自分の気持ちを押さえつけないといけないのがこんなに苦しいとは思わなかった。二年後に裏切られた恨みと絶望だけでは制御できないのだ。


 温室で毛布にくるまってぼんやりしていると、コンコンと温室の戸が叩かれた。

 どきっとして、クラリスがそっと入口に近づくと「クラリス」とアレクシスの声がする。


(今日も来てくれた……)


 喜んではダメなのに、クラリスの夜の番にあわせて来てくれる彼の優しさを嬉しいと思ってしまう自分がいる。

 アレクシスが優しければ優しいほど、別れを想像すると苦しくなるから、できれば冷たくしてほしいのに、どうして彼は離れてはくれないのだろう。未来で浮気するなんて失礼なことを言った婚約者なんて、さっさと愛想をつかしてしまえばいいのに。

 ドキドキする胸の上を抑えて扉を開けると、騎士服姿のアレクシスが微笑んで中に入って来る。


「ちょっと遅くなってごめんね」

「べ、別に、待ってなんていませんから……」


 もっとツンとした声で言えたらよかったのだが、なかなかどうしてそれができない。

 今日もサンドイッチが詰まったバスケットがあるので、アレクシスに食べるかと訊こうとしてクラリスはハッとした。


「アレクシス様、濡れていますよ?」


 傘をさしてこなかったのだろうかと考えて、騎士は任務中には傘を差さないことを思い出した。アレクシスは遊びんでここに来ているのではなくて、一応任務中なのだ。傘を持っていなくても不思議ではない。

 クラリスは急いでハンカチを取り出して、アレクシスの顔に当てる。顔も髪も肩も濡れていて、これでは寒いだろう。


「たいして濡れていないから大丈夫だよ」


 アレクシスはそう言うが、風邪でもひいたら大変だ。


「座ってください。髪を拭きますから」


 ハンカチでは埒が明かない。雨が降っているので念のためタオルは持ってきていた。クラリスはバスケットの横の袋からタオルを取り出すと、アレクシスを椅子に座らせて髪のしずくを拭う。

 せっせとアレクシスを拭いていると、彼が突然くすくすと笑い出した。


「クラリスは世話焼きだね」

「何を言って――あ……」


 反論しかけて、クラリスはようやく、別れたいと言っている相手に対して世話を焼くのはおかしいのではないかと気がつく。

 むっと口をへの字に曲げて、アレクシスに強引にタオルを押し付けた。


「あとは自分でしてください!」

「はいはい。そんなことより、おなかすいたなぁ?」


 アレクシスが片手で髪を拭きながらバスケットを見た。

 何だか揶揄われているような気がしてむむっと眉を寄せつつも、クラリスはバスケットを開ける。


「今日も美味しそうだね。食べていいの?」

「どうぞ。わたしだけでは食べきれないので」

「ありがとう」


 アレクシスが片手で髪を拭きながら、もう片手でサンドイッチを手に取る。

 もぐもぐとサンドイッチを食べながら、彼はかわりはないかと訊ねてきた。


「今のところは、何も起こっていないみたいです。このまま花をめでる会まで何もないといいんですけど……」

「何も起きなければ犯人が捕まえられないが、まあ、何かあると危険だから起きない方がいいのは確かだね」


 フェリシテの大切な花を切り刻んだ不届きものを捕まえて突き出してやりたい気持ちもあるが、これ以上温室の花が被害に遭うのは避けたい。実に悩ましいところだとクラリスは眉を寄せる。

 クラリスの予想では犯人はジョアンヌなのだが、確証がないし、確証があったとしても相手は妃だ。クラリスの力ではどうしようもない。


(フェリシテ様が陛下に奏上してくれたら違うんでしょうけど)


 事を荒立てたくないという意思は変わらないようだから、これも難しいだろう。

 あとは夜の番をしているときに現れて騎士によって現行犯で捕縛されれば、王太子の権限で咎めることはできるかもしれないが、現行犯で捕らえるとなると花が被害に遭うと言うことだ。それは嫌だった。


 クラリスがうーむと頭を悩ませていると、いつの間にかサンドイッチを食べ終えたアレクシスが、当然のように椅子を近づけてきた。

 毛布が取られたとき、前回と同じように同じ毛布にくるまる気だと悟ったクラリスは、パッと顔をあげた。


「毛布ならもう一つ用意しましたよ」


 前回の二の舞になってたまるかと、今日は毛布を二枚用意してきたのだ。ちょっとかさばったが、また流されてキスをされてはたまらない。いい加減アレクシスと距離を取らなければ、クラリスの弱い意思はあっけなく流されてしまいそうだからだ。


「一枚でいいよ。一緒にくるまった方が温かいだろう?」


 アレクシスは不満顔でそんなことを言うが、そんな言い分に騙されてはならない。


「いいえ、それぞれ一枚ずつ使った方が温かいはずです」

「俺はクラリスと一緒がいいんだけど」

「わたしと一緒の毛布にくるまっていたら、すぐに動けないんじゃないですか? 騎士の任務でいらしているんですから、身動きが取りにくくなるのは問題でしょう?」


 仕事中でしょうと言えば、アレクシスがむっと口を曲げて黙り込んだ。


(勝った!)


 クラリスはアレクシスをやり込めて満足したが、喜べたのは一瞬だけだった。

 あっと思ったときには、アレクシスに抱きしめられていたからだ。


「どうしてそんな風に冷たいことを言うの? 俺はクラリスのことがこんなに好きなのに、どうやったら伝わるのかな」

「な――」


 クラリスは逃れようとしたけれど、相手は鍛えている騎士である。胸を押そうとビクともしない。


「いつまで、将来俺が浮気するなんて意味不明なことを言い続けるわけ? どうして俺と結婚したくなくなったの? いい加減白状しなよ」


 白状も何も、クラリスは嘘なんてついていない。

 だが、クラリスが未来の記憶を持っていることはアレクシスは知らないので、彼の言いたいこともわかる。いきなり未来の話をされても、理解できるはずがないだろう。以前彼が言ったように、怪しい占い師の言葉を真に受けていると思われても不思議ではないのだ。

 クラリスが困っていると、アレクシスの腕の力が強くなった。


「ねえ、いったい誰に心を奪われたの? いきなり俺と別れたいなんて言うってことは、そう言うことなんだろう? クラリス、いつの間に俺以外の男に気を取られたの?」

「ちが――」


 これでは、浮気心を起したのがクラリスの方だと言われているに等しかった。冗談ではない。クラリスはずっと――それこそ、二年後に殺される直前まで、アレクシスしか見ていなかったのに。


「わたしはずっと――」


 言いかけて、クラリスは慌てて口を閉ざす。ずっとアレクシスだけが好きだったと言ってどうする。アレクシスと別れたいと言っているのに、それでは本末転倒だ。好きならば別れる必要がないだろうと言われてしまう。


「わたし、は……」


 なんていうのが正解だろうか。いっそ、他に好きな人ができたと嘘をつくべきだろうか。でも、そんな嘘をついて、では相手はどこの誰かと詰問されれば答えられない。


「……わたしは、あなたとは結婚できません」


 結局、クラリスが言えるのはそれだけだった。それ以外、何も言えないのだ。


(いっそ、アレクシス様が本当に最低な男だったらよかったのに――)


 二年後に浮気心を起した彼のことは憎い。でも、憎み切れない。それまでの彼は本当に優しくて、クラリスを大切にしてくれていたから。大好きだったから。だから、クラリスだって、つらいのだ。

 でも、そんなことは言えない。

 つらいけど別れてくれなんて言って、アレクシスが納得するはずがない。


「クラリスが嫌がっても、俺はクラリスと結婚するよ」


 硬質なアレクシスの声が、責めるようにクラリスの耳を打つ。

 顔をあげたクラリスは、アレクシスの綺麗な碧い瞳が、ひどく冷たい色を宿していることに気がついた。

 ああ――、最近見せるようになった、彼の暗い目だ。

 こんな色を宿したアレクシスは、未来の記憶にはいない。


(アレクシス様にこんな顔をさせたのは、わたし、よね……)


 それでも、やはりクラリスは彼と結婚できない。

 裏切られて、心を粉々に砕かれるのは、もうたくさんだからだ。

 アレクシスの腕の中から身をよじって逃げようとすると、アレクシスが腕を伸ばしてクラリスの顎を捕えた。


 口づけられる――、と顔を背けようとしたが、アレクシスの力が強くて逃げることができない。

 お願いだからこれ以上心を縛るのはやめてほしい――唇にかかった吐息に、クラリスが泣きそうになった時だった。


 ギイ、と小さな音がして、アレクシスがハッと顔をあげた。

 クラリスも音がしたあたりに顔を向けると、温室の扉が小さく開いている。

 アレクシスが、豹のような俊敏さで立ち上がり、駆け出した。


「待て‼」


 アレクシスが勢いよく温室から飛び出して行く。

 やがて遠くで聞こえた小さな悲鳴と、アレクシスの詰問する声を聞きながら、クラリスはそっと唇を抑える。

 アレクシスの吐息が、まだそこに、残っているような気がした――


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る