ゴールデンボーイ
柏木椎菜
一話
「……ごちそうさま!」
僕は朝ごはんを食べ終えて、コップの水を飲み干してから立ち上がった。
「ヘクター、自分の食器は片付けて。いつも言ってるでしょ」
玄関へ向かおうとした僕を母ちゃんがすぐに呼び止めてきた。
「お前は面倒なことはすぐに忘れるな。駄目だぞ。ちゃんとやらなきゃ」
母ちゃんと並んでご飯を食べる父ちゃんが、僕を怖い目で見ながら言った。
「……はあい」
怒ると怖い父ちゃんに怒鳴られる前にやらないと――僕は戻って空の食器を重ねると、それを台所の流しへ持って行った。毎日のことだけど、時々こうして忘れちゃうんだよな。自分でもやらなきゃって思ってるつもりでも。
「じゃあ、畑に行って来る」
やるべきことを終えて、僕は玄関へ向かう。
「待ってヘクター。ほらまた、スカーフが緩んでる」
母ちゃんの指摘で首に巻いた青いスカーフを触ってみれば、結び目がちょっと緩んでた。
「あ、本当だ……後で直しとく」
「後じゃなくて、言われた時にすぐに――」
僕は母ちゃんの言葉を聞き終える前に外へ出て行った。母ちゃんは何かっていうと注意してくるから、うるさくて嫌だ。特にこのスカーフの巻き方については口うるさい。今みたいに緩んでるとか、雑でだらしないとか、しょっちゅう注意してくる。だから前に、もうスカーフはしたくないって言ったんだけど、子供は巻かなきゃいけない決まりだって言われて、仕方なく巻いてる。寒い冬ならまだいいけど、夏になると暑くて汗をかくから取りたくてしょうがない。でもそうすると怒られるから、こうして毎日首に巻いてる。スカーフはおしゃれや身だしなみのために着けるって聞いたけど、僕にとっては汗を拭いたり手を拭ったりするタオル代わりになるものでしかない。おしゃれなんてどうでもいいんだけどな。
「……今日も雨は降らなさそうか」
僕は頭上を見上げて目を細めた。真っ青な空に浮かぶきらきら輝く太陽が眩しい。その光を覆い隠すような雲はどこにも見当たらない。昨日と同じ晴れた空が広がってる。気持ちのいい天気だ。
「じゃあ水をあげないと……あ、その前に雑草を見とくか」
家の目の前にある大きな畑に入る。そこには野菜やハーブなど、様々な種類の苗が植わってる。料理に使われる野菜類は全部ここで育てたものを使ってる。だから虫に食われたり、病気にかかったりすると、食べるものが減っちゃうわけで、そうならないように僕は一生懸命畑の世話をしてる。
「うわ、もう結構生えてきてるなあ……」
三日前に雑草は一通り抜いたんだけど、畑のうねにはちょこちょこと雑草の頭がのぞいてる。春になったばかりで、夜はまだ寒い日もある。でも昼間は少しずつ気温が上がってきてるから、雑草も育つのが早くなってきたみたいだ。僕は目に付いた雑草を片っ端から引っこ抜いていく。ちなみに雑草抜きと水やりが僕の毎日の役目で、畑の他の作業は父ちゃんがやってる。後で様子を見に来るから、適当にやってたらすぐばれて怒られる。役目を与えられた当初は何度もやり直しをさせられたもんだ。慣れた今はさすがにもうないけど。
抜いた雑草を集めて畑の脇の草むらに放り投げて片付けると、次は雨水を溜めた大きな桶にジョウロを突っ込んで水を汲む。それで苗にまんべんなく水をかけて回る。なくなればまた汲んでかける――それを繰り返して全部の苗に水をやった。太陽の光に葉から滴る水がきらきら光り輝いてる。しっかり育っていい実を付けてくれよ。
濡れた手を拭こうとスカーフに伸ばして、そう言えば緩んでるんだったと思い出した僕は、手を拭うついでにスカーフを首に巻き直した。よし、これでいいかな――畑を出てジョウロを農具置き場に戻し、一旦家へ戻ろうと振り返った時、その人影は僕の目に飛び込んできた。
畑の向こう、庭の入り口に一人の女の人がいた。結った茶色い長い髪、肩に羽織った重そうなマント、薄汚れた白いシャツと細身の黒いズボンにブーツ……見た感じ、母ちゃんと同じくらいの歳に見えるけど、母ちゃんみたいなスカートじゃなく、父ちゃんみたいな格好をしてる。女の人はスカートを穿くものだと思ってたけど、そうじゃない人もいるんだな。
誰だろうと思って見てたら向こうと目が合った。僕に気付いた女の人は何も言わず、しばらくじっとこっちを見つめてくる。あまりに真剣な表情で、何だか怖い気もしたけど、目が合ったのに無視するわけにもいかないから、とりあえず声をかけてみようと近付いた。
「……えっと、あなたは、誰ですか?」
僕は緊張しながら聞いた。父ちゃん母ちゃん以外の人と会うのは本当に久しぶりだ。前に会ったのは何年前だったろう。庭で遊んでた時に知らない男の人に話しかけられて道を尋ねられたことがあった。その時はすぐに母ちゃんが来て、僕は家に入れられた。だから会話もすることはなかったけど……もしかすると、他人と話すのはこれが初めてなのかもしれない。ど、どうしよう。ちゃんと話せるかな。
女の人は綺麗な黄色い目で僕を見つめながら言った。
「あなたの、名前は何ていうの?」
「僕の名前……? えっと、僕は、ヘクター……ヘクター・ルゴネス、だけど」
これを聞いた女の人は、眉間にしわを寄せた表情で言う。
「ヘクター・ルゴネス……それはあなたの本当の名前なの?」
「え……?」
何なんだこの人。意味がわからない。ヘクターは僕の名前に決まってるのに。変な人なのかな……。
「ヘクター、誰と話してるんだ」
その時、家のほうから父ちゃんがやって来た。よかった。僕じゃこの人の相手はできそうにない。
「あの、聞きたいことがあるなら、父ちゃんに聞いて」
「あれが、お父さん?」
「そうだよ。僕の父ちゃん」
歩いて来る父ちゃんを待ってると、急に父ちゃんの足が止まった。その顔は女の人を見てるけど、すごく驚いたような顔をしてる。
「……父ちゃん、この人、知ってる人?」
そう聞いた途端、父ちゃんは走って来ると、女の人と僕との間に割り込むように立った。
「なっ、何で……何しに来た!」
父ちゃんは焦った声で女の人を睨み付ける。やっぱり知り合い、みたいだけど……どうしたんだろう。見てると何だか不安になってくる。
「こんな山奥に隠れてたなんて。そう……思った通り、本当の名前じゃなかったようね」
女の人は父ちゃんの後ろからのぞく僕に視線を向けてきた。
「帰れ! 一歩でもこっちに来てみろ。そうしたらその足へし折って、二度と来られないようにしてやるぞ」
「言われなくても帰るわ。返すものを返してくれれば……」
そう言うと女の人は父ちゃんを押し退けて、後ろにいた僕の腕をつかもうとしてきた。
「何しやがる!」
でもすぐに父ちゃんは女の人を押して遠ざけた。……この人、何で僕の腕をつかもうとしたんだ……?
「ヘクター、家に戻るんだ」
「でも――」
「早くしろっ!」
僕は父ちゃんのことが心配だったけど、怒鳴った必死な顔が怖くて、仕方なく家へ小走りに向かった。
「あの子を今すぐ返しなさい」
「あいつは俺達の子だ!」
言い合う二人の大きな声に、僕は思わず足を止めて振り返った。
「よくもそんな図々しいことを」
「なら、違うっていう証拠でもあるのか! ヘクターはイレーネが産んだ子だ!」
僕のことで、喧嘩してるのか……?
「じゃあ、あの子の首のスカーフを取って見せて。時間が経ってても、首を見れば一目瞭然よ」
「う、うるせえ! お前なんかの指図を受けるか!」
「証明したくないというより、できないようね。まあ当然だわ。だってあなた達夫婦の子じゃないんだから。顔だってあなたとは全然似てない。私は一目でわかったわ。あの人の面影が――」
「黙れ!」
怒った父ちゃんは拳を握って、いきなり女の人に殴りかかった。ここまで怒った父ちゃんは初めて見た――驚いた僕は何の声も出ず、動くこともできず、見てるしかなかった。
でも女の人は殴って来るのがわかってたのか、素早く後ろに下がって拳を避けた。
「……そっちがそういう気なら、こっちも返してくれるまで容赦しないわよ」
怖い顔に変わった女の人は、マントの下に右手を入れると、そこから短剣を引き抜いて構えた――ぶ、武器だ!
それを見た父ちゃんは一瞬驚いたふうだったけど、すぐに農具置き場へ行くと、そこからクワを持って戻り、女の人に向けた。
「や、やるんなら、俺だって容赦しない!」
「どうなったって、知らないわよ……」
「こっちのセリフだ!」
二人は睨み合ってる――これって、止めたほうがいいんだよね? で、でも、僕にそんなことできるのかどうか。どうすればいいんだろう……。
悩んでる間に父ちゃんがクワで殴りかかって、二人の本格的な喧嘩が始まってしまった。……そ、そうだ。母ちゃんに知らせて止めてもらえば――
「そんな武器でもないもの振り回して、当たると思ってるの?」
「お前さえ、現れなければ、俺達は、幸せに……!」
「何が幸せよ……あの子の目を見ながら、同じことを言えるの!」
女の人の短剣がクワに当たって、父ちゃんの手からクワがすっ飛んで行った。僕はハッと息を呑んだけど、武器をなくした父ちゃんはすぐに女の人の短剣を奪い取ろうとつかみかかった。
「それを、よこせっ」
「離して! 怪我を負いたくなければ、あの子を返して!」
二人は短剣を握って揉み合いになってる。鋭い先端が交互に二人のほうへ向く。何か、すごく危ない動きだ。どっちかが力を緩めたらブスッと刺さっちゃいそうな感じがする――そんな僕の心配はすぐに的中してしまった。
「あっ――」
女の人が小さな声を上げたかと思うと、足がもつれたせいで地面に仰向けに倒れた。短剣をつかんでた父ちゃんも引かれて、上からのしかかるように一緒に倒れ込んだ。でもその直後、二人の動きがピタッと止まってしまった。さっきまであんなに揉み合ってたのに、何かおかしな様子に感じた。
「……くっ」
女の人は苦しそうな顔で、のしかかった父ちゃんに手をかけると、重そうにその身体を横へ転がした。ごろんと地面に仰向けになった父ちゃんを見て、僕はそれが一瞬信じられなかった。
「え……父ちゃん……?」
浅く短い呼吸を繰り返す父ちゃんは空をじっと見つめてた。その胸には奪い取ろうとしてた短剣が深く突き立って、そこから真っ赤な血を流してた。刺さってる……父ちゃんの、胸に、短剣が……!
感じたことのない恐怖に襲われた僕は、その場から駆け出してすぐに家へ向かった。玄関の扉を震えそうな手で開けると、部屋を見渡して母ちゃんを捜す。その姿は台所にあった。朝食の料理の後片付けをしてた母ちゃんに僕は一直線に駆け寄って叫んだ。
「母ちゃん! 父ちゃんが、刺されちゃったんだ!」
「……は? どうしたの一体」
仕事の邪魔をされてうるさそうな目で見てくる母ちゃんに、僕はさらに叫んだ。
「だから、父ちゃんの胸が、刺されちゃったんだってば!」
「もう蜂が飛び回る季節だからね。大丈夫よ。蜂一匹ぐらいに刺されても――」
「蜂じゃないよ! 母ちゃん来て!」
まるで勘違いしてる母ちゃんの腕をつかんで、僕は強引に玄関へ引っ張って行った。
「ちょっと、何? 蜂じゃないなら何なの?」
外に出て、僕は母ちゃんの腕を引いて、その姿を見せた。
「ほら! 父ちゃんが――」
「リ、リカルド……!」
すぐに気付いた母ちゃんは僕の手を振り払うと、慌てて倒れた父ちゃんに駆け寄って行った。でもその父ちゃんの胸にはもう短剣は刺さってなかった。その側に立つ女の人の右手に、血の付いた短剣は握られてた。
「ど、どういうことなの……リカルド……リカルド?」
かがんだ母ちゃんは父ちゃんを呼ぶけど、返事はない。さっきはちゃんと息をしてたのに――
「もう息絶えてる。残念だけど」
父ちゃんを見下ろす女の人が言った。息絶えてるって、死んだって、こと……?
「……! あんた、どうして……まさか……」
女の人に気付いた母ちゃんはその顔を見ると、父ちゃんと同じように驚いた顔になって、ゆっくり立ち上がった。
「こうするつもりはなかった……」
「あんたが、殺したのね……人殺し……人殺し!」
「その子を素直に返さないから、こうなったのよ。返しさえしてくれれば、命を失うこともなかったのに」
「私のことも、殺す気なの?」
「その子を返して。そうすれば何もしないわ」
母ちゃんは後ろにいる僕をちらっと見てから言った。
「……ヘクターは私の子よ。返すわけがないでしょ」
これに女の人の顔がまた怖くなった。
「あなたも夫と変わらないようね。自己中心的で強欲……こっちの気持ちなんて想像もしたことないんでしょうね」
「人殺しが偉そうなこと言わないで! 街へ行って役人に突き出してやる!」
「役人なんかに話したら、困るのはそっちもでしょ?」
「………」
母ちゃんは急に黙った。何で母ちゃんが困ることになるんだ。悪いのは絶対この人なのに。
「……じゃあ、返してもらうわ」
女の人が僕を見て近付いて来ようとする。やだ、来るな――
「触らないで!」
母ちゃんは僕を背中に隠して言った。
「リカルドを奪って、ヘクターまで奪われたら、私はこの先どうすることもできない」
「それがあなたの気持ち? 呆れた。甘えにもほどがあるわ。この先どうすることもできない?
だったら頭を働かせなさいよ。私はそうしてここにたどり着いたの。その子を取り返すために何年もね」
「ヘクターがいないと私は――」
「その子の名前はヘクターじゃない。そしてあなたの子でもないわ。まずはそれを認めて」
僕が母ちゃんの子供じゃない? そんなわけあるか!
「母ちゃん、この人怖いし、変だよ。逃げようよ」
僕は後ろから服を引っ張ったけど、母ちゃんはじっと女の人を見続ける。
「……いいえ、この子はもう私の子よ。私がここまで育てたんだから、私の子なの!」
「ここまで聞き分けが悪いと……力尽くになるわよ」
そう言って女の人は右手の短剣を軽く揺らした。刃に付いた父ちゃんの血が、怖さと怒りを煽ってくる。
「そんな武器……怖くも何ともないわよ! ヘクターは絶対に渡さないんだから!」
母ちゃんは叫ぶと、僕の腕をつかんで家のほうへ走り出した。逃げなきゃ、一緒に!
「家には逃げ込ませない!」
女の人がすぐに追って来る――これじゃ追い付かれちゃうよ!
「ヘクターは家に行って!」
そう言った母ちゃんは僕の背中を強く押し出して離れると、女の人のほうへ戻って行った。な、何で戻っちゃうんだよ。一緒に逃げなきゃ――
「私は殺されない! 私があんたを殺してやる!」
母ちゃんは女の人に突っ込んで行く。武器もないのに、勝てるわけない!
「怪我をしたくないなら、抵抗はやめて!」
女の人が短剣を振ろうとした手を母ちゃんはつかんだ。けど、すぐに振り払われてしまった――危ない。母ちゃんが刺されちゃう!
「痛い目を見ないとわからないようね……!」
短剣を振る構えを見て、僕は咄嗟に母ちゃんに駆け寄った。
「やめろ! 母ちゃんを刺すな!」
「!」
僕が母ちゃんをかばうと、女の人は驚いて動きを止めた。
「……あんたがいなければ、私は!」
止まった女の人を見て、母ちゃんは僕の横をすり抜けて飛びかかって行った。
「やめてっ――」
女の人は叫ぶと同時に短剣を母ちゃんに振った。その瞬間、母ちゃんの背中越しに赤い飛沫が舞うのが見えた。
「か、がは……ごふっ……」
おかしな呼吸をしながら母ちゃんはゆっくり地面に倒れてしまった。僕はその肩に手をかけて顔をのぞき込む。
「か……母ちゃん!」
苦しそうに歪んだ顔。空気を吸い込もうと開けてる口からは血の赤い筋が流れ落ちる。でもそれより血が流れてたのは喉だった。ぱっくりと開いた傷から次々とどす黒い血が流れて地面に血だまりを作ってく。その恐ろしい光景に僕の頭は何も考えられなかった。どうしたら……母ちゃんが死んじゃう……どうしたらいいんだよ!
「……カル……ド……」
かすれた声で父ちゃんの名前を呼ぶと、それから母ちゃんはぴくりとも動かなくなった。半分開いた目は宙を見つめて、おかしな呼吸もしなくなった――そんな、嫌だ、母ちゃん!
「母ちゃん! 死なないで! 起きてよ、ねえ! 母ちゃん!」
僕は今まで出したことのない大声で呼びかけた。肩を揺すり、もう一度こっちを見てほしいと思った。でも母ちゃんの目はずっと一点を見つめたままで、僕を見てくれることは二度となかった。
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