終章

アップルベル

終章

 所謂、「どん底」だった。


 成人式を迎えて、就職活動に成功して、必死で働いて。そうして、何事もなく数十年も生きていたのに。突然私の身体に現れた病原体が、「死」を顔面に突き付けてきたのだ。

 数日前から、身体の様子はおかしかった。だから、休日になった時に病院へ向かった。この季節だ。どうせただの風邪だろうと思っていた。簡単な薬でも処方してもらおう、そうすれば治るだろう、と。けれど、神様は、模範解答のように普通の人生を送っていた(と思う)私が、どうやら気に食わなかったらしい。ひどく大げさな機械を使用して私の身体を調べ上げた医者は、ある病名と共に、余命を告げてきた。

 これからの短い命を蝕んでいく、この病気が私に与えるのは、少し重たいくらいの風邪の症状と同じらしい。けれど、一見軽く見えるそれは、宣告された余命を確実に訪れさせるという。

 ちなみに、告げられた私の余命は、二年だった。

 それから一年が経ったけれど、その一年は私の環境を一変させた。友人関係とか、職場のこととか、もう色々あり過ぎて全ては挙げられない。最も変わったことだけ言うと、それは家族のこと。これは——言葉が少し汚くなるけれど——最低だった。本当に。

 私には、父がいなかった。母と離婚していて、その先のことは何一つ耳にしていない。母は元から、あまり感情を表に出す人ではなかった。だけど、一緒にご飯を食べたり、旅行へ行ったりしてくれた、優しい母だった。それなのに、私の病気のことを知った日の夜、姿を消した。文字通り、姿を消したのだ。

 一か月後、母は冷たくなったままの状態で見つかった。警察からは、「自殺」という単語が聞かされた。私には、母は逃げたのだという現実だけが薄く透けて見えた。

 それからの私は、ドミノ倒しのように転がり落ちていった。幼少期から、友人はそれほど多くなかったし、悩みを打ち明けられる親友も特にいなかった。恋人も、持ったことすらなかった。

 どん底に落ちた私がしたことといえば、後ろを振り返ることだった。そうして見えたのは、不思議と納得してしまうような真っ白な空間だけだった。足跡一つくらい見えても良かったのに、と思うと同時に、私は膝から崩れ落ちた。



 ある夜の病院からの帰り道、私はふと進む足を止めた。柔らかい、けれどしっかりと芯の通った心地よい音が、耳にそっと触れたからだ。気のせいかと思ったけれど、二度目があった。それから、私はフルートの音なのだとわかった。音がしたのは、あまり通ったことのない、ビルとビルの間の細い道から。恐る恐るその道へと足を踏み入れた。普段なら、こんなに暗くなった時間に歩くような所ではない。それでも、聞こえた音には人を——私を惹きつけるような力があった。

 ぼんやりと見えてきた人影に、ぐっと近づくとフルートを持った男の姿がはっきりと目に入った。前髪を長く伸ばした、長身のひょろりとした彼は私に気づいても、声すらかけなかった。足元には、蓋をギザギザに取られた小さな空き缶があった。

 彼は、チューニングを終えると私以外の観客が来ていないにも関わらず、演奏を始めた。オリジナルの曲なのか、私は聞いたことのないものを吹き始めた。

 穏やかに流れていく音の旋律は、まるで気の向くままに散歩をしているかのように感じさせるほど、自由なものだった。それなのに、決して忘れさせないほど美しい形を持った響きだった。

 不思議と、これは彼自身の幸福を歌っているのだろうという確信が持てた。

 さらりと心地よく吸い込まれていた私は、曲が終わってからもその余韻に浸っていた。

 私がお金を置いていかないと見定めたのか、一曲だけで去ろうとした彼に、慌てて財布を取り出した。こういう場所でいくら渡せば妥当なのかわからなかった私は、とりあえず一番最初に触れたコインを引っ張り出した。それを無言で空き缶に入れる私を、細い黒髪の間から見ていた彼は何事も言わず、缶を持ち上げて今度こそ去っていった。

 私は、彼が演奏していた一点をしばらく眺めていた。



 次の日の夜も、何となく同じ場所へ向かった。彼は、いなかった。

 その次の日も会えなかったので、それからはさすがに足を運ばなかった。



 半年後、つまり私の寿命まで半年になった時。また何となく、彼のことを思い出していた。

 その日は、珍しく病気の症状がひどく、高熱が出て寝込んでいた。いつまでも収まらない頭痛で中々寝付けなかった。それで、靄がかかったような意識の中でふと現れたのが、彼のフルートだったのだ。春の夜、比較的過ごしやすい季節の時。身体中を包み込んだ、温かな音。  

更に朧げになっていく意識内で、私は呟いた。あの音が聴きたいな、と。



 症状が治まりしばらくしてからの通院で、私は高熱が出たことを伝えた。すると、入院生活を勧められた。私は逡巡したのち、断った。ただでさえ気分は優れないのに、真っ白な病室になど籠っていたら余計寿命が縮まりそうだと考えたからだ。どうせ終わりが見えているのなら、その地点は落ち着く我がアパートの一室にしようと思った。

 そして、その日は久しぶりにあの細い道を通ってみた。昼の二時という何とも妙な時間だった。だからいないだろうと予想していたのだけれど。

 彼は、いた。

 そういえば、あの夜も七時という妙な時間だったかもしれない。

 日の光が当たるところで改めて見ると、フルートはあまり綺麗ではなかった。所々小さな傷が入っているし、目立たない程度にへこんでいるところまであった。けれど、銀色に艶々と光っていた。まるで、細々しい指とかさついた唇で奏でられる音には、強い芯が通っているのと同じように。

 彼は、また一人の聴衆の中で演奏を始めた。前回とは雰囲気の異なる、少し明るい曲調のものだった。抑え難い嬉しさが、幸福な妖精の吐息のように、休みなく溢れてきていた。私は、それを肌から吸っている妖精のように、また心地よく聴き入っていた。

 その曲が終わると、私は彼が去ろうとする前にお金を渡した。そして、声をかけようとした。

 ―—とても綺麗な曲だったよ

 ―—あなたの名前は

 ―—いつも同じ時間にここへ来ているわけではないんだね

 伝えることはあった。とにかく、美しい演奏をありがとう、とそれだけでも伝えたかった。年はきっと同じくらいだ。何も怖気ることはない。

 「——」

 駄目だった。お金を受け取るとすぐに、背を向けてしまった彼に、声はかけられなかった。



 今度現れた症状では、咳がひどくなった。普段から、何度か続けて咳き込むことはあった。けれど、そんなものは比べ物にならなかった。一つ一つの咳が喉を確実に襲ってくる。飲み物を飲もうにも、喉を通る水が熱湯のように感じられて、とてもじゃないけれど水分を摂取するのが怖くなった。

 そこに追い打ちをかけるようにして、熱が出た。前回のような高熱ではないけれど、微熱以上のそれだった。それによって、私は咳き込むたびに喉と頭に激痛が走ることになった。

 この症状は、恐ろしく長い間続いた。咳が収まっても、熱は引いていく様子を微塵も見せない。身体は、このまま地面に沈み込むのではと思うくらいの質量を持っていた。

 仕方なく救急車を呼んだ。初めてのことだった。

 病院へ辿り着いた私を待っていたのは、長い入院生活だった。

それは、予想していたよりもひどい入院生活だった。白い病室は私の顔色まで真っ白に塗り替えていくようで、病院中に蔓延している消毒の匂いは敏感になっている嗅覚を刺激した。何より、微熱以上の熱と共存していくことは決定したようだったのが、私の縮こまりきった心を抉っていった。



 寿命まで、残り二か月を切った。

 長かった、ただそれだけの思いが、大量の水を吸収した絨毯のように肩にのしかかった。

 唯一の良い知らせは、外出許可が出たことだった。ぞっとするほど急激に下がった熱が、再び上昇する様子を見せないからだ。数日ぶりに部屋へ戻って、積読していた本でも雑誌でも持ってこようと思った。

 そして、一つ。期待を抱いていたのは、彼の演奏を聴けるのではないかということだった。病院を出たのは朝十時。妙な時間だ。

 思わず零れてしまいそうな笑みを必死で押し殺して、私はあの道へ足を踏み入れた。

 彼は、いなかった。

 その可能性もしっかり持っていたはずなのに、ひどく落胆している自分がいるのはどうしてなのだろう。まあそうだよね、と無理やり口角を上げてアパートを目指した。

 部屋を出て病院へ向かう途中、自然とあの場所を目指している足に、自分で嘲笑してしまった。今落ち込んでから、数時間も経っていないというのに、私は懲りないらしい。

 「あ・・・」

 いた。もう、演奏を始めている彼が。

 私の漏らした声にも気づかない程集中している彼の演奏に、目を閉じて聴き入る。

 初めて聞いたものとも、前回聴いたものともまた違っていた。単純なリズムだけれど、澄み切った音は涙の一粒のように心に染みていった。

 曲が、終わった。終わってしまった。

 そのことに気づいた瞬間、私は声を出していた。

 「あの、とても、良かったです。綺麗な曲をありがとうございました」

 慌てて発された言葉は、顔を塞ぎたくなるような早口言葉だった。それでも、彼は聞き取ってくれたのだろうか。いつも以上に乱れた長い前髪の向こう側は、見えない。

財布を取り出してお金を渡そうとしたけれど、それより早く彼は空き缶を持ち上げてしまった。

「あの・・・お金」

「・・・いい。いらない、聴いてくれてるだけで嬉しかったし」

それだけで、私は、彼が自分のことを覚えていてくれたのだとわかった。直感だけれど、そう信じたい、と思った。

「今度は、いつ演奏しに来るの?」

思い切って聞いてみると、途端に私たちの間を少し強い風が通り過ぎていった。そうして見えた彼の顔は、目を丸くして驚いていた。

「その、明日なら。夜七時くらいに来てると思う」

 相手に有無を言わせないような暗い雰囲気からは想像もできなかった、たじろぐ声がした。

 「じゃあ、明日も来るね」

 そう言って手を振ると、はっと息を飲む音が、聞こえた気がした。



 あんな約束のような言葉を、言わなければよかったと思ってももう遅い。口は動かないし、身体も指先一つ動かない。両隣で、慌ただしく動き回る医者たちの声も聞こえなくなっていく。


 彼を初めて見た時は、路上で一人ライブをするなんて今どき珍しいな、と思った。しかも、楽器はフルート。ギターとかじゃなくて。面白いな、と何かに対してそう思うのはいつぶりだったのだろうか。

 けれど演奏を聞いた瞬間、そんな細かいことは全て吹き飛んでいった。綺麗、ただその一言に尽きる曲と音だったから。

 二度目に会った時も、勿論その演奏に惹かれた。でも、それだけじゃなかった。彼自身に、たった一人で、しかも聴衆も私一人だけなのに、そんなことどうでもいいとでも言うように、音楽を奏でていた彼自身にも目が向いた。

 三度目は、ただただ彼に出会えたことが奇跡だと思った。ただただ、嬉しかった。


 近くで、誰かが「16時22分」と言ったのが聞こえた。





 「やっぱり、今日も誰も来ないか」

 ひっそりと紡がれていくフルートの音色が、そこに一つだけあった。

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