毒親家庭で育ち、政略結婚の元夫からはモラハラにDV・浮気までされたあげく離婚されましたが、英国育ちの御曹司に溺愛されて幸せです。

葵月まる

第一章【裸足のシンデレラ】

1-1 プロローグ

「子供の出来ない役立たたずの女なんて、由緒正しい橘家には必要ないんだよ」


 そう冷たく言い放たれたと共に投げつけられたのは、離婚届と記された緑の紙。

 数年前に代々議員を排出していることで有名な橘家へ嫁いできたみおは、言われのない誹謗中傷に指先の体温がスっと下がっていくのを感じた。


 子供ができない??

 そりゃそうに決まっている。

 全く男性経験がなく、むしろ男という性に苦手意識を感じていた澪に対して、「不感症な女はつまらん」と早々に相手をしなくなったのではないか。

 聖母マリアでもあるまいし、夜の生活がなければ人間に子供が出来るはずがない。

 しかしどういったわけか、この男、直哉は全ての原因を澪に押し付け、隣に座っている美女の肩を抱き寄せた。


 何度かすれ違ったことはあるが、こうして対面するとより彼女のーー直哉の不倫相手である美香と自分の容姿との圧倒的な差に、目を逸らしてしまう。


 美容院で染髪しているのであろう全くムラのない茶髪に、軽く巻いた髪は艶がある。丁寧にトリートメントをして、お金をかけているのであろう。澪のパサついた栄養のない地味な黒髪とは大違いで。

 顔も澪の乾燥した青白い肌に比べて、色艶も良く、優美なカールを描く長いまつ毛は驚くほど長い。

 背も高く、まるで女優やモデルのような垢抜けた今時な美人の美香と、俗に言う芋っぽくて垢抜けない地味な顔の澪。

 そんな澪は直哉から言わせれば、「美香と比べると、お前は女としての価値がない」らしい。

 だから、澪は“浮気されても仕方ない”のだと。


「直哉さんったら、本当にかわいそう。おじい様から無理矢理結婚させられた相手が、とんだ大ハズレだったなんてねぇ」


 そう、澪が橘家に嫁いできたのは橘家の当主であり直哉の祖父にあたる人と多額の結納金に目が眩んだ両親の意向である。

 実家の世帯収入は澪が支えており、ろくに勉強する暇も与えられず、高卒と名乗っていいのかすらも怪しい澪をぜひうちの孫の嫁に来て欲しいと、両親に直談判したのだ。

 澪の両親と義理の祖父は特別親しい間柄でもなく、澪の稼いだお金をギャンブルにつぎ込む両親と地元で多大な権力を持つ橘家の家柄が釣り合っている訳でもない。

 ただ、義理の祖父は澪の祖母が残してくれたお店の常連さんという繋がりでしか無かったのに。

 澪は亡き祖母に代わり、下町の小さな小料理屋さんで両親の代わりに身を粉にして働いていたのである。

 ほかの常連客は「まるでシンデレラじゃないか!」と澪を祝福し、応援してくれていたけれど。

 しかし、実際は金のかからないの労働力から直哉の家政婦兼ストレス発散の為のサンドバックという扱いへと変わっただけであった。


 結婚当初から夫婦生活が破綻していたこの家に堂々と不倫相手の美香を連れ込んだ時はさすがに驚いたが、直哉が離婚を切り出すのは薄々気がついていたので、さほど驚きはしない。悲しみもない。

 美香の勝ち誇った顔も直也の侮蔑の眼差しも、仕方の無いことだと澪は自分に言い聞かせた。


 澪は無造作に床に落ちている離婚届を手に取り、確認してみると夫の名前だけでなく証人までもが既に記入されていた。

 後は澪が名前を書けばいいだけの状態。


「ほらよ」


 直哉が投げて寄こしたボールペンが、澪の頭に直撃する。

 美香の「大丈夫ぅー?奥さーん??」というったく心配しているようには思えない愉しげな声が聞こえたが、澪は何事もなかったかのようにボールペンを拾いそのままペンを滑らせた。

 澪に口答えは許されていないから。

 床で書いたので少々字が歪んだが、これで役所に提出すれば澪と直哉は離婚となる。


「そのまま役所に出して実家にでも戻ればいい。この家は今この瞬間から俺と美香の物だ。他人はとっとと出ていけ」

 まあ、ここは俺の家の金で建てた家であり俺の稼いだ金で暮らしていた、お前はただの金食い虫の寄生虫だったがな。と直哉は鼻で嘲笑う。


 学のない女が外で働けるわけがない、と直哉に専業主婦でいるよう命じられ、その命令に従っただけなのに。

 この家に来た当初の直哉の言葉を思い出したが、今更怒りも湧いてこない。

 澪は淡々とした表情で自分をこの家に縛りつけていた指輪くさりを床に置き、「では失礼します」と、離婚届だけを手に橘家を後にしようとした時だった。


「おい、それは俺が稼いだ金で買った靴だぞ。俺の物をどこへ持っていく気だ?」

「そうよそうよ!泥棒でもするつもり??」


 玄関先にまで着いてきた直哉と美香が、靴を履こうとしていた澪をそんな言葉で呼び止めた。

 澪は伸ばした足先を戻し、目を伏せた。


(服を脱げとは言わないぶん、まだマシだから)


 澪は沈黙を貫いたまま、素足のままで玄関の取っ手に手をかける。


「マジで裸足で行きやがった!」


 直也と美香のおかしくて堪らないという笑い声に背中を押され、澪は雨の降りしきる中、橘家を飛び出したのだった。


 傘も持たない年頃の娘が脇目もふらず、裸足で駆けてく姿を通行人が不思議そうな目をして振り返る。

 しかし澪は他人の目など気にすることなく、一直線に役所に向かって走り続けた。


 この雨で離婚届が無効にされたら、面倒だから。


 雨で濡れないように小さく折り畳み、折り線の跡が幾重にもついた離婚届は無事に処理された。

 裸足にびしょ濡れ姿のせいで、役人や周りの市民に訝しげにジロジロと見られたけれど。


 こうして外の天気とは裏腹に、晴れて澪は橘澪から白衣澪しらきぬ みおへと戻った。


 澪は静かに「ありがとうございました」と、毛先から水を滴らせながら頭を下げ、役所を後にした。


 激しく振り続ける雨が痛い。

 初夏を迎える前の春先の凍てついた雨は、まるで役立たずの自分を責め立てるかのように怒涛に降り続いて、止む気配がない。

 裸足で雨に濡れたアスファルトを踏む感覚もこの寒さのせいか、ずいぶん前に麻痺してしまった。

 そんな今にも死にそうなほど青白い表情を浮かべながら、澪はこれからのことについてぼんやりと考えていた。


(実家に戻って、離婚しましたって言わなきゃ)


 その事実を知った両親はきっとーー


 澪を怒鳴り、なじり、罵声を浴びせ、気の済むまで殴る蹴るの暴行を加えるのだろう。

 もしかしたらそれだけでは気が済まない、と殺されるのではないかとすら思えてくる。

 祖母が生きていた頃は、まだ楽しかった。

 祖母を手伝うことは苦じゃなかった。

 しかし祖母が亡くなってからというもの、澪は家に縛り付けられ、ろくに同級生と遊ぶことも出来なかったせいか、連絡の取れる友人すらいない。

 そもそも、携帯の類の所持を許されていなかったのでいたとしても連絡を取る手段がない。


(わたし、何もない)


 愛情も、友情も、頭脳も、才能も、お金も、自由も。


(何もないわたし、だから、いらない)


 ふと顔を上げると、いつの間にか澪にとって数少ない思い出のある場所へと辿り着いていた。

 特に意識していなかったので、たまたま通りかかったとも言えるのかもしれなかったけれど。


 橘家と実家の間にある、鶯沢うぐいすざわ国立公園。

 普段は周辺住民に親しまれ、友人からカップル、子供の遊び場、高齢者の憩いの場として幅広い世代から親しまれている。

 同時に桜の名所としても有名で、桜が満開を迎えていた半月ほど前の休日は国内に限らず、海外からの花見客で溢れかえっていた。

 しかし、今日はあいにくの雨と桜の見頃を過ぎたためか公園には人が見当たらない。

 ならば好都合と、澪は桜並木だった場所を通り抜け、一本の木の下で足を止めた。


 名所である並木道から少し離れたところにある、開けた場所で鎮座しているのは枝垂桜の木だ。

 ここだけ並木道のソメイヨシノとは違う品種の桜が植えられており、ちょっとした穴場で澪のお気に入りの場所だった。

 澪は服が汚れるのも厭わず、木の根元へ腰を下ろした。


 昔学校の図書館で読んだ、フランダースの犬という本がある。

 実家にいた頃の澪には自由に出来るお金がなかったので、お昼休みの時間に読む読書が唯一の娯楽で趣味だったのだ。

 嫁いでからも自由に出来るお金も時間もなかったので、卒業してからは1冊も読めていないけれど。


 あの本のラストでは主人公ネロが憧れだったルーベンスという画家の描いた絵に見守られて力尽きてしまうのだ。

 愛犬のパトラッシュに、「もう疲れたよ」と言い残して。


 澪の場合ならルーベンスの絵画ではなく、この思い出の枝垂れ桜。

 この木に見守られるようにして、静かに目を閉じる。


 もう疲れた。

 生きるの、疲れちゃったよ。おばあちゃん。


 ああ、でもーーと澪は春の残り香のする夢をもう一度思い浮かべる。


 あの時言えなかった、お礼が言えたなら。


 澪の前に一瞬だけ現れた、別の世界に住むあの美丈夫に触れられた部分が、ほんの少し熱を帯びた気がした。



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