三の下、座間輝安彙(ザマキアンノタグイ)

 まどろみの中、クサビは戸外に激しい衝突音を聞いた気がした。


それは地鳴りを伴ってクサビのいる屋根裏の床をも揺るがしている。


外で何事か起こっている。


クサビは飛び起きた。


ユウヅツが階の降り口に立って表を指差している。


そのユウヅツは夢の中とはうって変わって色つやのある頬をしていた。


クサビはひとまず安堵した。


 階はすでに降ろされていて、屋根裏を明るくしていたのが下からの光だと気づく。


女は外にいるのか、屋根裏部屋には居なかった。


クサビはユウヅツにここにいるように言うと階を駆け降り、階下の石敷きにまろび出た。


一瞬その明るさに視力を奪われたが、須弥壇が破壊され石敷がめくれ上がって破壊尽くされた宇堂を見た。


さらに壁にきららのような光の粒が踊っているのを見て振り返ると、昨夜は閉じてあった大扉も破られている。


前庭に生い茂った曼珠沙華にもきららが散華していて、その中心に、降り注ぐ日差しを乱反射する小山のごとき物体がある。


その上を舞うように動き回っているのが雉の尾、スハエだった。


屋根裏で聞いた地鳴りはスハエの打槌だったのだ。


スハエがクサビを待たず打槌を下すのは余程のことだ。それほど突然に対面したのだろう。


クサビはスハエに手を上げて合図すると、堂宇から日差しの中に飛び出しスハエとの間に立った。


クサビが代わって対峙する山、それこそ嬰嶽の一、座間輝安彙ザマキアンノタグイだった。




 まるで近衛の剣のごとき輝く刺列を幾重にも纏ったその肢体、無数の切先をクサビに向けて蹲るその姿には一分の隙もない。


時折聞こえる地の底から響く破擦音は、突然現れたクサビへの威嚇なのか、それとも非道な攻撃を繰り出すスハエへの恨み言なのか。


「どこを攻める」


 スハエがクサビに叫ぶ。


クサビには分からない。嬰嶽はこれまで何度となく目にして来たがこの型はまったくの初見だった。


 まず、嬰嶽の心魂を見出さなければならない。そうでなければクサビは戦うことすらできない。


ここを慎重にしないと嬰嶽に呑み込まれて終わる。


「まだか?」


 スハエのいら立ちを背後に感じながら、クサビは嬰嶽の心魂を探る。


懊悩に取込まれた心魂が光を求めて薄明の内を彷徨っているはずだ。


どこにあるのだ、その苦悶に、その悲哀にまとわり付かれた心魂は。


「汝が劈開を示せ!」


 クサビが叫ぶ。嬰嶽の唸りが悲鳴に変わった。


クサビの目は嬰嶽の背後の曼珠沙華の中に立ったユウヅツに注がれた。


そして嬰嶽が後ろに飛びし去った刹那、クサビの憎悪は膨大な質量を解放し嬰嶽に躍りかかった。


「ひりだしやがった」


 スハエが叫ぶ。クサビのハラから飛び出した巨大な肉塊が嬰嶽に覆いかぶさったのだ。


おぞましい汚濁の塊。これがスハエが糞と言って忌避するクサビの嬰喰えばみの姿だった。


嬰喰とはその名の通り、嬰嶽を喰らう嬰嶽の鬼子だ。


普段はその宿主に潜み、嬰嶽を感知すると主の体を引き裂いて姿を現し、嬰嶽に躍りかかって喰らい尽くす。


その姿が嬰喰を使役しているように見えるゆえクサビらのことを嬰喰使という。


 その肉塊は形為すことなくさまざまな位相を示しながら嬰嶽の刺列を覆い尽くして行く。


その鋭利な刃表に肉塊は創傷を負い汚泥を流す。


嬰嶽の刺列のきらめきが消えてゆく。


嬰嶽と嬰喰、お互いが吹き出す猛烈な土気が周囲を圧し、前庭の曼珠沙華を全てなぎ倒す。


 その肉襞の隈々を何かが蠢いている。


白い人の肌が肉の塊の中を、とどまることなく蠢く、流れる、揺蕩うている。


クサビである。


クサビの肢体が見え隠れしながら肉塊の中で流動している。


時に背中、時に尻、時に乳房、時に肩から上腕、時に大腿を外気に露呈しながら。


 嬰嶽を解放し肉塊に呑み込まれたクサビは座間輝安彙を見据えている。劈開を探っている。


その一点を探り当てれば嬰嶽は取り込んだ心魂を解き放つ。


そうして嬰喰は嬰嶽を喰らうことが出来るようになる。


故に、劈開を見出すの間、クサビの嬰喰は嬰嶽を呑せず待つ。




 童女が見えた。


嬰嶽の心魂に一人の童女がいる。


ユウヅツに似ているが違う。


見覚えがある。あの女、おそらくそうだ。


この座間輝安彙はあの女の過去を抱え込んでいる。


何故だろう。


 クサビはさらに襞に分け入っていく。


手をつないで歩く男と童女の姿。


あの夢で見た光景だ。


あれは嬰嶽の借夢だったのだ。


ならばあの地下に居た物こそが嬰嶽。


この座間輝安彙の心魂はあの女の父なのか。


それは定かではない。


あの女の話にそこまで懇ろなものはなかった。


 男が一人歩んでゆく。


彼方の童女の姿を幾度も幾度も見返している。


しかし男は行かなければならない。辺境の地に赴き、役を務めあげなければならない。


掌に童女の温もりが残る。


その掌を見つめている。いつまでも執拗に飽きることなく。


男が口を開き声のない叫びをあげる、父を許せと。


お前を一人にした父を罰せよと。


男は己が許せんと悲鳴を上げ自らを傷つけ苛み始めた。


その悲鳴が男を覆い尽くす嬰嶽を蝕み始める。


刺列の狭間の暗闇にあかぼしのごとき輝きが見える。


心魂が姿を現したのだ。


「汝の劈開を示せ!」


 クサビが叫ぶと、そこに一閃亀裂が走る。


嬰嶽に取込まれていた男の心魂がその劈開を見せた瞬間だった。


深く刻まれた劈開に映されたのは、娘を手放した男の悔恨だった。


 その時、強烈な振動がクサビの体に伝わってきた。


男の心魂が青い焔を発しながら溶けて出してゆく。


スハエの打槌が劈開に向け敢行されたのだ。


嬰嶽が邪気と憤怒の相をクサビにぶつけて来た。


クサビはそれを真っ向から受け止めるとさらに劈開に向けて嬰喰を捩じり込む。


嬰嶽は辛酸と苦悶の形を成し霧消への恐怖を現した後、寛容と祈念の情を見せ、昇華して宙に霧散した。

 

――ここに嬰嶽の一、座間輝安彙ザマキアンノタグイは解除されたのだった。


 次に来るのは、クサビへの打槌だ。


それは解き放たれた嬰喰をクサビの身中に戻すために打ち下ろされる。


従って嬰嶽への仕方とは違う。


嬰嶽への打槌はクサビの示した劈開に向けて槌の一撃を放つが、クサビへのそれは肉塊から露出したクサビの体表に向かって打ち込まれる。


その時、クサビの上半身前面を避けねばならず、でないとクサビは死に、嬰喰を野に放つことになる。


野に放たれた嬰喰とは嬰嶽以外の何物でもない。


ゆえにスハエもこの時ばかりは慎重ならざるを得ない。


捕食後の嬰喰は動きが敏捷にもなっているので、相当の技量が必要とされる。


 一発目の打槌は肉塊に当たり、スハエは嬰嶽からの反撃の土気を喰らいよろけつつ次の一撃を打ち込む。


その打槌は見事にクサビに当たり嬰喰の動きはゆっくりと止まり、やがてクサビの身の内に取り込まれていった。


クサビの二の腕に鞭のような傷がまた一つ増えた。




 裸で横たわるクサビに小袿を掛けたのはあの女だった。


ユウヅツがクサビのもとにしゃがんで汗で張り付いたクサビの前髪をかき分ける。


クサビはそれに応えてユウヅツに微笑んだ。


堂宇の前庭は嬰嶽が押し倒した曼珠沙華が巨大な真円を描いているばかりだ。


クサビはスハエの姿を捜したが、すでに雉の尾を引いて立ち去った後のようだった。

 

女はクサビに言った。


去年の春、初瀬に詣でた時の夢告に関東のこの寺で父を待てとあった。


ゆえに都から来て幼いころに分かれた父を待っていた。


そして何日か前にいよいよ待ち人が来ると夢に告げがあった。


昨晩父が来たと思ったらクサビたちだったと言った。


クサビは女には他に事情があったと見たが、この夢語りを真に受けることにした。

 

女は地下に嬰嶽が住み着いていたことはおろか地下があることさえ知らなかった。


クサビは、あの嬰嶽が女の父だったということを、女には知らせずにおくことにした。


 出立の時、女はこれで都に帰ると言った。おそらく自分の役目は終わったのだと言って泣いた。 

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