四の上、厚木蛍宇津保(アツギホタルノウツボ)

 クサビらが関東検非違使所に帰ると、局室が西の離れの隷長屋に移されていた。


嬰嶽えいがくの一、座間輝安彙ザマキアンノタグイを解除したことによる物忌のためであるが、おそらくこれからここがクサビの局室になる。


判官様の居所からは少し離れたが檻でもなく明るい局室でクサビは気に入った。


それとクサビがユウヅツを連れ帰ったことに頓着する者はいなかったので、おのずとそこに同居することになった。


与えられる食餌はこれまでと変わらないので、そこはクサビの分をユウヅツに分けねばならなかったが。


 そのユウヅツといえば、もとは貴顕の姫なのだからこの局室は決して相応しいとは言えない。


それなのに己が境遇を嘆かず、当たり前のように振る舞っている。


忌が明けてからというもの、内住まいの刀自とじ采女うねめの子らに誘われて西の離れの中庭で駆けまわったりしているのを見ると、もともとここで育ったかのような気さえして来る。


クサビとてもそれが違和感なく、むしろいついなくなるかと不安が募って、夜半にふと目覚めては隣で寝ているユウヅツの艶やかな髪に触れてみて安堵することがあるくらいなのだった。




 意外だったのは、これまでクサビを恐れて近づこうともしなかった女たちが、ユウヅツが来た途端に親しげに局室を訪うようになったことだ。


最初のうちはユウヅツに食べさせろと、山芋を干したものや赤米を盛ったのやらを持って来てすぐに帰って行ったのだが、そのうち何も用事がなくともクサビの局室へ来るようになって世間話というものをするようになった。


それでも女たちは相変わらずクサビは怖いらしく、機嫌のよさそうな時しか話を交わそうとしなかったものの、おかげでこれまで全くといっていいほど情報のなかった検非違使所の外の様子が少し分かるようになった。


厚木の市に現れるという嬰嶽を知ることにもなったのもここからである。




 その時は、いつもより多くの女たちがクサビの局室に来て厚木の市の話で盛り上がっていた。それは先月の三の市が立った時のことだというから最近の事らしかった。


 厚木から来ている身重の女の話では、市の初日、女が地の物を商う用意をしていると、いつの間にかユウヅツほどの童女が目の前に立っていたという。


装束からそれなりの身分らしいのだが連れもいず、直接話しかけるのも憚られるので女もそのままにしていた。


童女は品を物色する様子もなく、かと言って女に話しかけるでもなくずっとそこに佇んでいる。女も商いの邪魔だし何かと苛立つ時期で目障りに思ったがあっちへ行けとも言えず、そうするうちにいつの間にか日が高くなってしまった。


いよいよ女が困って何か用かと聞くと、その童女は女に向かって訳の分からない言葉で叫ぶと忽然と消えたのだそうだ。


 クサビがその女にどんな匂いがしていたか問うと、女はそこにクサビいたことを初めて知ったかのように驚き、しどろもどろに返事をすると顔を隠しながら局室を出て行ってしまった。


クサビは、おそらく土気特有の黴臭い饐えたような匂いがしたろうと思った。


それは嬰嶽の匂いなのだ。




 その後にも同じような話が何度となくクサビの耳に入って来たのだったが、不思議と判官様からのお呼びはかからなかった。


 夏になるとユウヅツは髪も伸び顔貌かおかたちも女らしくなって周囲を驚かせた。


世話好きの女官たちなどは、軽々しい男に言い寄られぬうちに教養を身に着けさせるべきだとか、裳着の介添えになってくれる有力者を見つけなければなどとクサビに向かって言うことがあった。


当のユウヅツはまったくその気はないらしく、相変わらず中庭で童どもに混じって駆けまわっているのだったが。


 いつからかユウヅツはクサビのことを母上と呼ぶようになっていた。


声は出ないのだが、ユウヅツがクサビを見て口を動かす時、たしかにそう言っている。


肉親のないユウヅツにとってみれば、寄る辺はクサビだけなのだからそれも当然とはいえ、子を産んだことのないクサビには少しくすぐったくもあった。


 それでも、ユウヅツが中庭から局室に駆け込んで来てクサビに飛びつき、額に汗を浮かせて黒々とした瞳で見つめ、


「母上」


 と言った時、クサビはユウヅツを思い切り抱きしめながら、身体の奥のずっと奥のほうで、なにか懐かしいものを感じずにはいられなかった。




 秋もそろそろ終わろうかという寒い朝、ザワがクサビたちの局室にやって来た。


その特徴ある足音に、クサビは初め、判官様のお呼びがかかったかと襟を正したが、そうではなかった。


「母に会ってくれ」


 ザワはそう言うと頭を下げた。


それが朴訥として口数少ないこの男の精一杯の懇願というのが分かったので、クサビは否と言わずザワの母親に会いに行くことにした。


 クサビが出立の用意をしていると当然のようにユウヅツも準備を始める。


ここ最近はずっとこうやってクサビに付いて来たので、もはやクサビも当たり前になっている。


常の追捕は野盗・山賊の類、相手も捕まれば獄門首になるのを分かっているから必死な抵抗を試みる。


つまり油断をすれば命の危険を伴う役である。


また、嬰嶽の解除でさえ一度ならず同行して、さらに言葉にならないほどの恐ろしい目に会ってもいる。


なのに必ずこうして付いて来る。


もしかしたら、ユウヅツには走り隷の素質があって、クサビの後を襲ってこの局室の主になるのではないかと思わずにいられない。


しかしそれがユウヅツにとって良いことかどうかはクサビには測りかねた。


やはり検非違使所の女たちの言うことも少しは考えてやらねばならぬのかと思い返して見ることが一度ならずある。


もとは姫様なのだし、探せば後ろ盾になろうという貴紳が現れないとも限らないのだ。




 次の朝、ザワとクサビたちは西に向けて出立した。


クサビはいつもの壺装束、ユウヅツは変わらず童装束で、ザワは衛士の重い甲冑姿である。


ユウヅツは足腰が強くなって二人の足に遅れずに付いて来る。途中、あの薄野を通った時、クサビはユウヅツの顔を覗き見たのだったが、そこには何の感慨も見て取れなかった。


あの凄惨な出来事を幼い体のどこに封じ込めたかと想像すると、クサビのほうが鬱々とした気分になるのだった。


 三叉に付いたのは前の時よりも早く、まだ陽が高かったのでクサビはザワと相談して、さらに先へ進むことにした。


このまま歩き続ければ、ザワの母が住む厚木に着くのはおそらく夜半になる。


検非違使所から与えられた日数は二昼夜と少ない。無理は承知で進まねばならないのだった。


 厚木に辿り着いたのは漆黒の宙にたくさんの星が瞬く頃だった。ユウヅツも黙って少し後ろをついてくる。


ザワにここからの道を尋ねると、母に会うのは明けてからの方がいいと言う。


この無骨な男は相変わらず説明もなく押し黙ったままなので、クサビは仕方なく市の立つ廃寺で夜を過ごすことにした。


 屋根が朽ち落ちて宙が見える堂宇であっても雨露はしのげそうなので、月明かりが届かぬ陰にユウヅツを誘い横になるよう促した。


そうしてクサビはユウヅツに小袿を掛けてやり見張りをザワに頼んで寝床に敷く茅を集めに出かけた。


そこから少しはなれた場所に茅原があるのを来がけに目にしていたのだった。




 茅野につくとすぐにクサビはザワから借りた山刀を手に茅を刈取りに掛かる。


思った以上に足もとは泥濘ぬかるんでいて刈り取りに苦労したが、ユウヅツの筵に間に合うほどの茅を刈り終わるのにはさほどの時間はかからなかった。


クサビが刈り取った茅を束ね終わって腰を上げると目の前に童女が立っていた。


いつからいたのか分からないが、こちらをじっと見つめている。クサビはこれかと思った。あの女が言うようにユウヅツに似てはいるが、それは単に顔色だけのことだとクサビは思った。


この童女の目には陰惨な色があって、ユウヅツのそれとは似ても似つかなかったからだ。


さて、どうするか。


クサビは思案した。声を掛ければ叫んでいなくなるのは分かっている。


できれば捕縛して正体を明かしてやりたい。


声を掛けなければこのままこうしているはず。


ならば女たちの話からは分からなかったことを見極めてみよう、クサビがそう思った瞬間、クサビの中で何かが叫んだ。


これはこの童女のではない。


あの時の声。ユウヅツを初めて見た時の叫び声だ。


ユウヅツになにかあったのか。


クサビは目の前の童女のことを措いて、茅もそのままにユウヅツのいる堂宇に走った。


行ってその叫びを止めなければならない。


でなければまたぞろ粗相をして、汚泥の中でのたうつはめになる。


今はこの間のようにスハエの助けは期待できない。


クサビは急いた。


焦って駆けて堂宇に戻った。


ザワが堂宇の前で槍を構えて立っている。


血相を変えて駆け寄ってきたクサビにザワが驚いてその場に硬直する。


クサビは何があったかと問うたが、ザワは何もないと言うばかり。


中に入ってユウヅツを見ると先ほどのまま固い床の上で寝息を立てていた。


空耳だったのか。


いや、クサビは確かにあの叫びを聞いたのだ。


気のせいなどではなかった。


 しばらくしてクサビは茅原に茅と山刀を置いてきたことを思い出し取りに戻った。


月明かりの下に茅の束と山刀はあったが、童女の姿はどこにも見当たらなかった。


 明けて目覚めると隣にユウヅツがいない。


急ぎ起きかけたところで、ユウヅツが駆け込んで来て霜が降りたことを告げた。


見目も姿形もすでに女だが、まだしぐさには幼さが残る。


そんなユウヅツの真っ赤になった頬をクサビはそっと両手で包んでやった。


それは氷のように冷たかった。


この短い間に、ほんとうに美しい娘になったとクサビは思った。

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