七の上、琥珀地獄判官(コハクノヂゴクハンガン)
クサビは人の背に負ぶわれていた。
負ぶっているのは母のようだった。
クサビは身を固くした。
負ぶった赤子がぐずると後ろ頭でド突いて黙らすような女だからだ。
そんなはずはない。
母はずっと昔に死んだのだ。
押しつぶされるような頭の重さを感じつつ、クサビはそこで目を覚ました。
クサビは衛士に負ぶわれていた。ザワだった。
「どうして」
「轍を追って来たらお前が道中で倒れていたので連れてきた」
「サヨ姫は、いやユウヅツはどうした」
「わからぬ。轍は足柄からずっと続いているが、ユウヅツは見当たらない」
「ここはどこだ」
「横走りの関」
そこから西に不死の山がもうもうと噴煙を上げる姿が遠望できた。
「すまぬ。降ろしてくれ」
クサビはすこしよろけたが立てた。
「礼を言う。ここからは一人で行く」
「人手はいくらあってもよかろう」
相手はユウヅツだけではなく関東最強の
しかし、この任は誰のものでもない。
クサビ自身のものだ。
それにザワを巻き込むわけにはいかなかった。
「ありがたいが一人で行く」
思った通りだという表情でザワは言った。
「そう意固地になるな。援軍も直に来る」
すると真上から声が降ってきた。
「すでにここに居るぞ」
見上げるまでもなく声でスハエだと分かった。
逃げたのではなかったか。
「糞のためではない。積年の恨みをはらす」
判官様から一番恩恵を受けたのはスハエだったはず。
思いはザワも同じらしく、大げさなあきれ顔をクサビに向けた。
クサビは少し気持ちがほぐれて、ザワたちと同行することにした。
「他の者たちは」
とクサビが聞くと、クサビの背後を指さしてザワが言った。
「あすこに」
振り返ると、森を抜けたあたりを長槍を携えた衛士の一団がこちらへ近づいて来ていて、中の一人が槍を高々と上げていた。
エツナのようだった。
クサビたちは一団が追いつくのを待って、そこを出立した。
エツナはクサビの顔を見ると頭をかいて言った。
「先ほどはすまぬ」
どうやら、天青鬼鹿毛を前にしてクサビを見捨てたことを言っているようだ。
クサビはそれを流して、
「協力に感謝する。ただ、あの嬰嶽に対峙したときは、助太刀無用で頼む」
「こっちもか」
上の声がすかさず問い質した。できれば己一人でこの任の始末をつけたかった。
ユウヅツと決着をつけるのに横やりは邪魔だ。無論捨て身の覚悟でいる。
しかし、そう言えばごねる男とクサビは知っていたので敢えて言った。
「ことが終われば、打槌をお願いしたい」
「さもあろう」
スハエは高笑いをすると、光彩を棚引かせて一本道を先に発った。
スハエの雉の尾は上機嫌な時によりきらびやかになると、クサビはこの時知った。
裾野に入った。
ここでは不死山の裾に青い空が切り取られ台地が斜に見えた。
常に眩暈を促すような風景だ。
その中をスハエの光彩を先頭にクサビら一行が進んでゆく。
土車の轍とユウヅツの足跡は一本道にくっきりと穿たれて続いている。
クサビの前を歩くザワが言った。
「上人様に行き会った」
「卒塔婆を立てた僧侶か」
僧侶は札を立てたのだったが、クサビの中では卒塔婆に変わっていた。
聞けば高名な御坊なのだそう。
「壺湯へ行くよう勧めたそうだ」
エツナがクサビに言った。
「紀伊の熊野よ。万病に効くというからな」
椛の若木の中を一行は進んでいた。
秋とはいえ日差しが強かったので木陰の道がうれしくもあった。
一行は轍を辿って進んでいたが、林を抜けて視界が開くと先頭の衛士が足を止めた。
二町ほど前方の中空にスハエがとどまっているのが見えたからだった。
一行のうちザワら数名がスハエのもとへ駆けてゆく。
そのうちの一人がクサビたちのところに戻ってきて、
「轍がない。いや、道がなくなっている」
と言った。
追いついたクサビたちが目にしたのは裾野に広がる溶岩だった。
先の不死の噴火でできた溶岩帯にちがいなく、見上げると頂から流れ落ちた跡が黒々と見て取れた。
「見失った」
ザワが言う。
たしかに轍がなければ追うことは難しい。
しかしながら相手もまた苦労しているはず。
「手分けをしよう」
クサビが言う。スハエが上空から言った。
「不死の南側と北側で一班。山頂へ行くのが一班」
エツナが、
「どのように」
それに応えてクサビが
「ザワとそなたで南と北を一班づつ」
と指示する。
「クサビとスハエが山頂か」
ザワが心配そうな顔をして言った。
続けて空から声が降ってくる。
「ここから見ても山頂は土気が強そうだからな」
溶岩帯はあちこちから土気が蒸気とともに噴出していた。
高所に行くほど噴煙は厚くなっているように見えた。
土気が強いと人は死ぬ。
嬰喰使のクサビとスハエならばある程度はもつ。
一行は三手にわかれて再び歩き出した。
北へ向かうザワの一団と南のエツナの一団が溶岩の隙間に吸い込まれたのを見てクサビは不死の高嶺に一歩を踏み出した。
スハエは先に行ってすでに視界にない。
溶岩帯に入ると足場は一気に悪くなった。
道といえるものはなく、押し出しされた岩塊と岩塊の間にできた人がやっと通れるほどの隙間を抜けてゆく他なかった。岩塊はところどころまだ熱気を帯びていて、中には岩襞の奥が赤々と燃えているものもあった。
いったいユウヅツたちはこの荒れ地をどうやって進んでいったのか。
クサビには想像もつかなかった。
しばらく迷路のような空間を進んでいると、頭の上から声が降ってきた。
「先は長そうだぞ」
足を止め見上げると、スハエが小屋ほどもある岩の上に片膝を立てて座り、眩しそうに不死の頂を振り仰いでいた。
クサビは答えない。沈黙に耐えかねたかスハエが言った。
「糞は知っていたのだな」
それにクサビが答える。
「何を」
「不死の頂が目当てだということをだ」
ユウヅツの居場所は検非違使所を出るときから空に輝く一つ星が示していた。
それはいまや、不死の頂のはるか上空にあって、クサビを待っているのだった。
クサビは再び歩き出しながら言った。
「嬰嶽が湯につかると思うか」
スハエは舌打ちをすると、再び中空に舞い上がり溶岩帯の上を軽やかに飛び去った。
舌打ちをしたいのはクサビの方だった。
この道なき道を何里歩けば不死の頂にたどり着くのか見当もつかなかったからだ。
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