クラップ・インザ・ダーク
飯田華
クラップ・インザ・ダーク
故人の不幸の上で、胡坐を掻いている。醜悪な面をひた隠しにしながら、素知らぬ顔で自分だけの幸福を享受して、大切な人と微笑み合う。
それらを行ってみて初めて、自らの醜さに気づく。反吐が出るほど汚らわしく、利己的な行為に及んでいるのだと、骨の髄に染み渡るまで実感する。
それでも私は、幸福な生活を手放そうとは終ぞ思わなかった。
罪悪感が頭をもたげる。故人の怨嗟がガンガンと鼓膜を震わせて、それでもなお無視を決め込む。
そんなことができてしまう私はきっと、罪深い人間なのだろう。
火葬場からの帰り道、運悪く交通渋滞に巻き込まれてしまった車の中。
「しばらく、一緒に暮らそうか」
その提案は、本当に意識せずに放ったものだった。思いついたことをそのまま、喉の奥から滑らせるように放った言葉は、助手席に腰かける妹に伝わる。
伝わってしまった。
「え?」
今しがたまで沈黙を保ち、身じろぎもせずフロントガラスの向こう側を見据えていた彼女は、私の提案を上手く咀嚼し切れないような表情をしていた。私の横顔に向かって瞳をすっと動かし、「なんで今?」と問いかけるような視線を差し向けてくる。
責めるわけでも、訝しんだようでもなく。瞳の中にはただただ疑問の色が滲んでいた。想像以上に渇き切っていた焦げ茶色の虹彩は、いつもより一層くすんでいるように見える。
その代わりに何度も擦ったのか、柔和に伸びている目尻の先にはくっきりと赤の射線が浮き出ていた。擦り切れたような色合いは痛そうで、見ているだけで喉奥がヒュッと鳴るようにひくつく。
泣き尽くした後の、悲痛な表情。
「ごめん、なんでもない」
それを見てしまった私は、謝罪の言葉を吐くことしかできなかった。茶を濁して、逃げて、平板な声色を車内に落とす。
絶対に今、言うべきではなかった。後悔が末端神経を駆け走り、ハンドルを握る手に力がこもる。
妹からの返答はなかった。こくりと頷くだけで、ほっそりとした喉元が震えることはない。
私の提案は次第に有耶無耶となっていった。いや、有耶無耶にしてくれた、といった方が正しいのかもしれない。妹の細やかな善意によって、車内に再び沈黙が流れ始める。
私も妹も前方に向き直って、フロントガラスの向こう側を透かすように眺める。ただ無気力に前の車のナンバープレートの数字を数えていると、ふと視界に飛沫が散った。雨が降り始めたようで、空に薄く暗雲が広がる。
ガラス上で反射する私たちの頬に、まるで泣いているかのような雫が伝っていた。
妹の夫であった幸彦くんの火葬式はつつがなく、何の障害も発生せず、ただただ厳粛に取り行われた。唯一の憂いを挙げるとするならば、天候があまり芳しくなかったことだろうか。
薄雲が低く立ち込める空の彼方に溶け込んでいく、故人だった煙。さらさらと、質量を持たずに消えていくそれを見上げているうち、「昨日の方がよかった」と、心のどこかで思っていた。
昨日は、雲一つない晴天だった。群青色だけが視界に澄み渡る、音の少ない日。吹く風は弱々しく、地面に敷かれた枯れ葉の一枚も動かせないほどだった。
地上を低く、ゆるやかに流れる風が素肌を這う、心地よい感覚。彼も、本当はそんな風に運ばれて空へと飛んでいきたかったのかもしれない。邪推の域を出ない考えの数々が、静寂の支配する運転席と助手席の間を行き来していた。
依然として私たちの間に会話はなかった。鼓膜が捉えるのは、ぽつぽつと窓を叩く雨水と、道路の対向車線からときおり聴こえるクラクション。そして、細々とした妹の吐息くらいだった。
今一度、前を向く妹を横目に見やる。
本当は、何か声をかけてあげたかった。だからこそ、さきほどのような言葉が口から漏れ出たことも理解していた。
寄り添いたくて、力になりたくて。姉としてできることを遂行しようとした。
その末に飛び出てきたのが、『しばらく、一緒に暮らそうか』。
舌先から滑り出したその言葉にはきっと、伴侶を亡くした彼女にできた空白を埋めようという想いが溶け込んでいたのだと、自分ながらに考察してみる。振り返ってみればずいぶんと身勝手に吐き出してしまったと嘆きたくなるけれど、本質的な思いはそのようなものなのだ。
姉として、当然の。
…………だけど。
頬の乾いた横顔。黒地のスカートの上で微かに震える指先。揺れ動く瞳は不安定で、宙を泳ぐ魚でも追い駆けているかのようだった。
見て取れる、空白。
それを、私が埋めようとしている。元は彼女の夫がいた位置にすり寄り、立つ。
つい、手を伸ばした。
しっかりと握りしめていたはずのハンドルを離して、左手を社内の暗がりに溶け込ませる。妹と私の距離は、そこまで離れてはいない。ほんの数十センチ指先を突き出せば、届く。
妹は、寒そうだった。だからこそ、温めてあげたかった。
冷え切った指先を手に取ろうとして。
「…………くん」
微かに開いた妹の唇から、ぼそぼそと何かが零れた。
その瞬間、手を引っ込める。さっと、妹にも気づかれないように左手を膝元に置いた。
渋滞が少し緩和されたようだった。前方の車がゆっくりと動き出すにつれて、私も慎重な所作でアクセルを踏んだ。
それからはハンドルから左手を離すことなく、ただただ前だけを見据えて家路をたどっていった。さきほどか細く口を動かした妹も、それからは何の言葉を発することなく座席のシートに背中を預けていた。
ほっそりとした体躯の輪郭をなぞるようにへこんでいるシートを横目に、私はさっきの言葉を脳裏で反芻する。
ゆきひこくん。
平仮名で、親しげに、そして、どうしようもなくなった今を嘆くように。
ぽつりと呟かれた彼の名前に、私はひるんだ。
牽制でもされたみたいに。
火葬式から数十日経って、遺骨も迎えて、幸彦くんの死に関する事柄が一旦は収束した後。
しんと静まり返っていたキッチンには、きめの細かい湯気が立ち昇っていた。
「おかえり」
仕事を終えてから妹の家へ帰ると、紺色のエプロンを身に着けた彼女が幅の広いキッチンを動き回っていた。IHのコンロには底の深い鍋が置かれ、時折白煙を散らしながらも、ぐつぐつと中の物を煮込んでいる。
「今日は遅かったね」
「うん、仕事が少し長引いちゃって」
部屋の外で脱いでいたコートをキャビネットにしまいながら、背中越しに妹と会話する。今日の献立はシチューのようで、リビングにいてもまろやかな香りが漂ってきていた。
やがて夕食の準備ができたのか、妹が二人分のシチューと食器、そして少し薄目の麦茶をお盆に載せてやってきた。すぐさまテーブルの椅子につき、二人で「いただきます」と手を合わせる。
「ちゃんとあったまってる?」
妹にそう訊かれた私はこくりと頷き、「うん、おいしい」と感想を述べた。白いとろみの中で浮かぶ具材を掬い上げて口へ運ぶと、ほどけるように甘みが口内に広がる。
「よかった」
いそいそとスプーンを動かす私を見て、妹は微かに頬を緩ませた、ように見えた。
見えたと、ただ私が思いたいだけなのかもしれない。
「この味、なんか母さんが作ってたやつに似てる気がする」
「そう、かな。……まぁ確かに、お母さんに習ったから、似るのは当然かも」
妹が幸彦くんとの結婚を決めた後、ときどき実家に帰って母さんから料理を習っていた時期があったそうだ。ハンバーグ、筑前煮、そして母さんの得意料理だったミネストローネ。
別に妹は、専業主婦になろうとしていたわけではなかった。けれど、「やけに張り切っててたわ」と妹の様子を報告する母との会話を、今でも覚えている。
嬉しそうだった、と。今にも顔を綻ばせそうだった、と。
自分までその幸福を分け与えてもらったかのような母さんの弾んだ声色を電話越しに聞きながら、そのときの私はどんな表情をして、どんな返しをしたのだろうか。
笑っていたのだろうか。「それはよかった」と、安堵に喉を震わせていたのだろうか。
今となってはそれを鮮明に思い出すことも、母さんに当時の様子を訊くこともできなかった。
去年の暮れ、母さんは心臓の病で亡くなった。それはあまりに突然のことで、私たち姉妹は葬儀中にも、火葬中にも、その事実に関して確かな実感を持つことができなかった。
もう二度と、母さんには会えない。
それが覆らないと真に理解したのは、がらんどうになった実家に足を踏み入れてすぐのことだった。二人で、人一人分の呼吸すらも消え失せてしまった室内を動き回っていると、冷え切った違和感が両肩に積み重なっていた。リビングにも、キッチンにも、トイレにも、風呂場にも。どこかしこにも生活の痕跡がくっきりと存在していて、けれど家主だけがいない。
視線を彷徨わせても、母の面影を捉えることはできない。それを実感して初めて、「母さんが死んだ」と分かったのだった。
シチューをゆっくりと頬張りながら、できるだけ気づかれないよう、向かい合わせに座っている妹の顔を盗み見る。伏し目がちになりながらシチューを掬い上げる妹の表情からは悲しみの色は読み取れなくて、ただ食事をしている姿が視界の中央に据えられた。
妹は、母親と夫、二人分の喪失感を味わったことになる。背骨が引き抜かれたような、その場に立っていられなくなるほどの虚無感に襲われたことになる。
胸が痛んだ。どうにかしてあげたいと思った。
火葬場での帰り道、胸中に迸った感情が再燃する。
「今度はミネストローネ、作ってもらおうかな」
努めて軽く、呟くように希望を述べると、妹は「お姉ちゃんも手伝ってね」とこちらを窘めるような視線を向けてきた。
少しだけ、笑い合った。
本当に笑うことができていたかどうかは、私も妹も定かではなかった。
それから食事を終えて、食器も洗って、各々風呂に入って。
二人並んでソファに腰かけていると、時間の流れが遅く感じる。ソファの向かいに置かれたテレビ画面に映る世界情勢のニュースも、意識ははっきりとさせる手立てとはならなかった。
ぼうっとしながら、ニュースキャスターの丁寧な発音を聴き流す時間が続く。
最近はこうして、二人並んでテレビ画面を見据えることが多くなった。きっと、さして動きを要求されないからだと思う。瞳を前に向けているだけで視界に映るものが切り替わっていく時間は、今の私たちにとっては都合がよかった。脳を半分眠らせたまま生きていられる気すらした。
気がつくと、右肩にさらりとした感触を帯びた物体がのしかかっていた。
横目で窺うと、妹がすぅすぅと寝息を立てながらこちら側へと枝垂れかかっている。
肩甲骨に、妹の少し癖のある髪が広がる。幼い頃からウェーブのかかった髪質は今も健在で、視界の右半分を占める黒は小刻みに波打っているようだった。毛先が肌に触れるたびにくすぐったく感じて、すぐにどかそうと妹の頭をポンポンと叩いてみたけれど、寝入っているのか、当分起きる気配はなかった。
じっとしながら、妹の温度を肩越しに感じる。目の前の画面で繰り広げられているニュースキャスターの雄弁がだんだんと遠のいていって、鼓膜で捉えられる震えが妹の呼吸一つとなった。
つい、手が伸びる。
火葬式があった日にひるんでしまった左手は今、しっかりと妹の右の頬に触れていた。
張りのある柔肌に指先が沈み込み、一種のあどけなさのような感覚を覚える。まるで妹が小学生だった頃にタイムスリップしたかのような、過去と今がぴったりと重なる瞬間が訪れたような気がした。
最近は自宅ではなく、妹のところばかりに足先を向けている。
「おかえり」と「ただいま」を繰り返して、食事を取って眠りにつく。そんな生活がずっと続いていて、火葬式のときに言った「しばらく、一緒に暮らそうか」という誘い文句が現実になりつつあった。
本当にいいのかと思うときもある。
あの日、ふいに呟かれた「ゆきひこくん」に牽制されたように、ときおり見えない何かに弾圧されているような心地がしていた。見えない誰かは、きっと幸彦くんではない。その誰かはきっと、人間ではない形をしていて、どろどろとしていて。
罪悪感に、殺されそうになる。
けれど、今こうして妹に触れているうちは、その圧迫感から逃れることができた。指が肌を伝い、その分ぬくもりが灯される。静謐な寝顔は幼い頃の妹のままで、安心感と「ここにいていい」という確信が自然と脳の片隅から湧き出てくる。
穏やかな時間だった。誰にも損なわれる心配のない時間だった。
そう思っていた。
視線が微かに開いた唇に映ったとき、ざらりとした感触が喉元を走った。
思い出してしまったのは、結婚式での一幕。
幸せそうな、二人の晴れ姿だった。
バージンロード。教会のステンドグラス。白波のようになびくウェデングドレスの裾がステンドグラス越しに差し込む日差しを受け、艶やかに輝く。
やがて牧師の元に辿り着いた妹は、彼と向き合い、微笑み合う。
讃美歌を歌いながら、密かに奥歯を噛み締める私。
誓いの言葉を交わす二人。最後には彼が妹の顔にかけられたヴェールを翻し。
キスをしていた。
その光景を、私はどんな表情で見ていたのだろうか、思い出せないし、思い出したくもない。けれど、一つだけ確かに覚えていることもあった。
私は、拍手をしていた。ぱちぱち、ぱちぱちと。
そのときの拍手はきっと、世界一軽薄なものであったと思う。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
静かな声によって、意識が引き戻された。
いつの間にか妹は起きていて、自身の頬に触れたまま固まっている私を胡乱げに見上げていた。その後、大丈夫? と何度も訊かれ、そのたびに曖昧な頷きを返す。
さっき浮かべたグロテスクな回想が、未だに脳裏にこびりついていた。
そして、罪悪感が再び顔を覗かせる。
人の死を、利用している。
鋭い痛みが喉元を掠めて、上手く言葉を紡げなかった。
夜が深くなって、カラスもきっと寝静まって。
私たちは静かに、寝息を立てる準備を始める。
寝室に移動した後、私たちは各々の寝床に体を滑り込ませた。私は床に敷いた敷布団、妹は壁の縁に沿うように置かれた幅の広いベッド。
いつもこうして、同じ部屋で睡眠をとっていた。
仰向けの姿勢で、照明の落とされた天井をぼんやりと見つめる。暗く、見通しが悪くて、まるでこれからの私の行く末を暗示しているかのようだった。
もう、眠ってしまいたかった。罪の意識を感じない、夢の世界をただただ願った。
瞼を閉じる。
「お姉ちゃん」
暗闇に落とされた私の名前が、夢への飛行を立ち止まらせた。
「どうしたの」
舌先がどうしようもなく震えていて、けれど言葉を吐かずにはいられなかった。
「一緒に暮らそうって、言ってくれたよね」
「え?」
唐突な感謝に、舌が振動を止める。
「私を心配して、そう言ってくれたんでしょ。あのとき」
あのときとは、火葬式の帰りでのことを指しているのだろう。
違う。
そう、叫びたかった。違うと。そうじゃないと。
私はただ、率直な願いを述べただけなのだ。他人の不幸を利用しようとしただけなのだ。
二人だけの生活を、望んでいただけなのだ。
けれど、私は叫ぶことができなかった。声を荒げて、自らの醜悪さを表出させることが、どうしてもできなかった。
姉として、それだけはできなかった。
「わたし、嬉しかったんだと思う」
私が望んでいた言葉を、妹が淡々と連ねていく。
「一人きりは、ずいぶんと久しぶりだったから」
それは夢のようで、しかし、甘美ではなかった。
喉奥に、罪悪感の針が突き刺さる。幻であるはずの痛みは鮮明で、私が言葉を引っ張り出そうとするたびに、鋭利な矢先がずぶずぶと沈んでいく。
私は。
私は。
言わなければならない。
違うって。
首を横に捻り、ベッドの上にいる妹を見つめようとする。角度的にその表情は窺い知ることはできない。
「だから、お姉ちゃんが来て、気が楽になったんだ。上手く息ができるようになった……みたいな」
妹が、ベッドの縁から顔を覗かせる。
「ありがとう」
面と向かって言われた言葉に、息が詰まる。
少し潤んだその瞳に、呆然と口を開けている私が映っている気がした。
舌先が、勝手にうごめく。
「あんたは、大丈夫だから」
知らぬ間に首肯していた。
「私がついてる」
姉の体裁を守ろうとするたび、心にひびが入る。
言えなかった。
妹は私の言葉を受け取って、微かに安堵の息を吐いたのち、眠りについたようだった。寝息が聴こえ始め、世闇で意識を保つ人間が自分一人となる。
…………私は、どこまでも卑怯者だった。
朝起きて、未だ眠る妹を揺り起こして、二人でリビングへ向かう。
朝食の食パンを焦がしてしまった妹を見て呆れながらも、焦がしてしまった方の食パンを一かじりして「これで貸し一つ」と妹に言い放つ。
妹は、たおやかに笑っていた。
今日は朝早くからミーティングがあるらしく、妹はてきぱきとシーツに着替えていた。私は十時からの出勤だったからまだ外に出る準備には取り掛からず、ぼんやりとした視界の中央に妹を据え、その支度を見守った。
そしてふと、後頭部からささやかに飛び出た寝ぐせに気づいて、妹の方へと歩み寄り、その髪を手に取った。
手櫛でつややかな長髪を撫で、その出っ張りを目立たないように抑える。妹はくすぐったそうに身を捩らせながらも、私の手入れを素直に受け入れているようだった。
玄関先。妹の小さな足がパンプスへと差し込まれていく。とんとんと爪先を地面に打ち合わせて踵の位置を整え、出勤の準備は完了したようだった。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
こちらを振り返った妹にそう返すと、彼女は嬉しそうに頬を緩ませながら、ドアノブを捻った。華奢な背中が、朝日の落ち行く景色へ吸い込まれていく。
ばたんと玄関がしまり、妹の姿が見えなくなった後、私はリビングへと踵を返し、部屋の縁に置かれたソファに腰かけた。
つい先日、彼女と出かけた際に選び、買ったものだった。
「あはは」
ふいに、笑みが零れる。
「あははは」
私以外誰もいない部屋、高鳴りを抑えることなどできない。
「あははははは!」
おもむろに手を叩く。ぱちぱちと軽快な音が部屋中に満ちていって、鼓膜が平衡感覚を失うくらいにぶるぶると震え出した。思わず後ろに倒れ込んで、ソファの緩衝材に背中を沈ませる。
幸福だった。
どこまでも幸福だった。
望んでいたものが手に入った高揚感で、どうにかなりそうだった。
拍手は途絶えない。ずっと、ずっと、音は鳴り響く。外を走る自動車のホイール音、駆け走る子供の甲高い声、朝日が昇りゆく街が立てる、生活の音たち。
それら全てを掻き消しながら、手のひらを重ね合わせる。
故人の不幸の上で胡坐を掻いている。醜悪な面をひた隠しにして、彼女と向かい合っている。二人だけの家で、二人だけの生活を形作っている。
愛し合っている。
醜いと、反吐が出るほど汚らしいと、分かっていても。
この生活を手放す気には、そうそうなれなかった。
打ち鳴らす。相好を崩す。拍手喝采は天井に遮られて、天まで届くことはない。
そのことに安堵して、私は「幸せだ」と言葉を漏らした。
この拍手はきっと、世界一充足したものであるだろうと。
そう、決めつけながら。
クラップ・インザ・ダーク 飯田華 @karen_ida
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