第21話『気楽な稼業』

『気楽な稼業』にあったように、献本が届くたびにインクの匂いを嗅いで、刊行の喜びを味わっている山川直人さんにならってみたが、僕は鼻が効くほうではないので物足りない。


 刊行は十月一日付だったが、書店に並ぶまでには一週間ほどのタイムラグがあると文筆舎から聞いていた。

 全国三十書店で販売されるが、そのすべてを回ることなど到底出来ない。陳列を待ってから、暮らしている神奈川県内の書店だけを巡ることにした。


 あいにく、近所の書店では扱っていない。整骨院からの帰り、横浜駅地下街の書店に陳列された様子を伺う。横浜を代表する大型書店で、ここに自分の本が並ぶのは横浜育ちの僕にとって、非常に嬉しいことだった。

 検索機で陳列された棚を探し、入口近くだと安堵したが、目を皿のようにして探しても、僕が出した本は見つからない。


 どこだどこだと胸踊らせて腰を曲げ、端から順に指で追うと、ハードカバーの隙間に埋もれた背表紙をようやく見つけた。

 安くて手に届きやすい、小さくて持ち運びやすい文庫サイズが裏目に出ていた。これではせっかくの表紙が目につかず、売れる見込みがまるでない。

 少しでも売れてくれよ、とSNSで陳列棚を発信し、今日のところは引き下がった。


 その数日後、精神科の受診日であった。県央とも県西部ともとれない町のクリニックは、妻がうつ病を患ってから通い続けた。うつのがあるからと、何でもないときから僕も受診しはじめて、前の会社で精神疾患に陥ったときも、妻を失ってからも僕の支えになっている。

 また、受診のあとに近傍の大山や七沢温泉、足を伸ばして小田原や箱根に行くのも、密かな楽しみになっていた。


 診察室に入ってすぐ、僕は共同出版した本を差し出した。医大生時代、鉄道研究部にいたという先生は、電車が駆け抜ける表紙に目を見張る。

「実は、本を出したんです。妻と僕がうつを患った話で……無許可ですみません、先生のことも書いています」

「いやぁ、そうですか。気持ちを整理するために、いいのではないでしょうか? 帰ったら、楽しみに読ませて頂きます」


 照れ笑いする先生に、明るい本ではないのですがと継ぎ足すと、認知療法として会話がはじまった。

「小説を書くのは、思考の整理になるので是非とも続けてください」

 そうなのか、と僕は小さく頷いた。僕が心を病まないようにと、妻の最期の贈り物が小説なのか。


「気分は如何ですか?」

「目覚めも悪くないし、食欲もあります」

「今の漢方が合っているようですね。引き続き処方しましょう。それで次回は──」

 と、翌月に予約を取って会計し、薬局で漢方薬を受け取って、僕は本の陳列を確かめるため、本厚木へと電車で向かった。


 駅前のビル一階の大型書店、検索機で棚を探して上から下まで舐めるように指で追い、僕は「あっ」と小さくうめいた。

 平積みになった本の奥、背表紙を見せる棚の下に僕の本は身を隠していた。


 書店に置いてくれるよう頼んだのは文筆舎だが、実際に陳列を考えるのは書店の仕事。これは、どういう判断だろうか。僕の本は売れないと、書店員が判断したのか。

 憤りはなかった、ただただ意気消沈するだけだ。


 確かに、つらく重苦しい小説は流行りではない。チートや無双、逆境を跳ね除けるような物語が世を席巻している。

 そんなことは、わかっている。

 わかっているが僕の、僕と妻が闘った物語には、価値を見出されていないのか。本棚の影に隠れた本が、苦しみ続けた妻と重なり合っていくような気がして、僕は苦渋を飲み込んで書店を去った。


 再び電車に乗り込んで、薄っすらとした諦めと、淡い期待を胸に抱き、海老名駅そばの書店へと足を運んだ。

 ここは、妻と通院の帰りに寄った本屋だ。互いに本が大好きすぎて、刊行するたび買いに走るとキリがないから「本屋さんデー」というのを決めて、月に一度だけ買い漁る、そんな書店のひとつだった。


 検索機で調べた棚は、柱の裏側。入口からは、棚の存在にさえ気づかない。が、そこで僕はインクの匂いより遥かに強い、喜びの香りが鼻から脳へ突き抜けて、薄桃色のヴェールに包み込まれた。


 僕の本は目線の高さに、表紙が見えるように陳列されていた。


 新刊で、目を引く表紙に店員が惹かれただけかも知れなかったが、本に閉じ込めつないだ妻の生命が報われた、そんな気がして胸の奥深くから熱いものがこみ上げてきた。


 突然名乗り出ては迷惑だろうと、僕は固く結んだ口の中で「ありがとう、ありがとう」と何度も何度も繰り返し、頭を低くしその書店をあとにした。


 数百円の一冊に、その何倍もかけてまで出版することを人は馬鹿馬鹿しく思うだろう。これでは作家と名乗れない、共同出版の課金作家と僕は自分自身をさげすんでいる。

 だが、得るものは多くあった。

 好きなだけでは関わる機会がまったくない出版社の仕事や本の作り方、書店に陳列されるまでの流れに触れられた。


 そして何より、妻が本になって生まれ変わったと実感出来た。

 柱の影の本棚で優しくも鮮烈な表紙を表に向けた妻は、確かに穏やかに笑っていた。

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