第20話『つば広の帽子をかぶって いわさきちひろ伝』

 掴んでいたのはジョッキではなく、空虚だった。落ち着く場所が見つからず、伏せた視線がテーブルを泳いだ。取る気のない枝豆をじっと見つめて、僕はリアルと対峙した。


「どうかなぁ……。二十四時間も家を空けるから、駅員は続けられなかっただろうなぁ……」

 そう呟いた僕の頭に、絵本画家のいわさきちひろがよぎっていた。


 終戦を迎えた安曇野から画家を目指して、ひとり東京に出たちひろ。活動の中で出会った松本善明ぜんめいと結婚し、長男猛を授かったものの絵本画家として活躍しはじめ、子育てがままならなくなってしまう。

 そんなとき、愛する我が子を安曇野の両親に泣く泣く託したんだった。黒柳徹子さんと飯沢ただすさんの共著『つば広の帽子をかぶって いわさきちひろ伝』に、そう書いてあった。


 妻がこの世を去ったあと、僕も同じように我が子を両親に預けたのだろうか。

 いいや、僕たちが子供を授かっていたとしたら、妻は今も生きていたのだろうか。

 妻が飲んでいた抗うつ剤の影響を鑑みて、子供を作ることなど考えていなかった。それでも授かっていたとしたら、僕たちの運命はどう変わっていたのだろうか。


 子供がいたら、今とは違った今があった。


 目に映った枝豆が、潤んで見えなくなっていた。眼鏡を外して両目をハンカチで覆い隠して、溢れる涙を受け止めた。

 声が出せなくなった僕に、白井は身を乗り出して肩を掴んで、声を荒げた。

「まだ若いんだから、恋愛しまくってくださいよ! 付き合いまくって、バンバン子供作りまくってくださいよ!」


 柄に合わない激励を、僕は笑い飛ばしたかった。涙の海に沈んでいこうとする僕を、白井は引き上げようと必死に手を伸ばした。

 湿ったハンカチをポケットに仕舞って顔を上げると、心の底から案ずる白井がジョッキを突き出す。僕は白井とジョッキを交わし、感謝と困惑を笑みに込めた。


「恋愛なんて忘れたよ」

「出来ますよ」


 ふたりで誓い、妻と僕とを繋ぎ止める左手薬指にかけた枷、そんな僕に出会いが訪れるのだろうか、こんな僕に恋愛をする資格があるのだろうか。

 思考の沼に足を取られ、苦悩の渦に沈んでしまうより先に、僕はジョッキに飛び込んだ。ぷはっと息継ぎをして見せてから、悪戯っぽい笑みを浮かべて白井の顔を覗き込んだ。


「出会いなぁ、我々の商売における最難関だ」

「それも書いていましたね、男前なのに独身って人が多いですからねぇ。俺も婚活していなかったら、どうなっていたことか」

「勘違いして、女性職員を追い回している輩もいるからな、中にも外にも。困ったものだね」

 それから僕らは若い頃の話をはじめて、会社の話や趣味と実益それぞれの電車の話、馬鹿をやった話などして、陽が暮れるまで笑い合った。


 猫を思ってそろそろと、白井も嫁に叱られるからと、勘定をして店を出た。東京でも有名な呑み屋街なんだから、ハシゴをすればよかったのかと互いに淡い後悔を抱いていたが、僕と白井が一緒に呑むといつもこうだ。

「ハシゴってのも、やってみたいね。横浜の野毛が有名じゃない?」

「いいですね、行きましょう! また声掛けます」


 僕と白井は、高らかな笑い声を夜空に届けた。僕が流した涙は今、星空の下で漂う雲となったのか。その遥か向こう、五十六億七千万年も先で過ごしている妻は、僕たちを見て馬鹿だなあと笑ってくれているだろうか。


「それじゃあ、次は野毛で」

「今日は、ありがとうございました。また、宜しくお願いします」

 ペコッと頭を下げた白井に、こちらも腰を折って礼を告げた。これくらいでは、とても足りない謝礼であったが、互いに列車の時間が迫っている。上下が分かれたプラットホームで互いに手を振り、これを今日のさよならとした。


 接近チャイム、レールの軋み、煌々と照るヘッドライト、甲高いモータの響き、蛍光灯に照らされた車体の番号に、僕は目を丸くした。

 東日本大震災発生時、僕が乗務していた電車だ。車両の番号や詳しい仕様を書いていないが、小説に登場する。

 乗り込み、座席を確保してから白井にチャットを送る。


[東日本大震災で担当した電車が来たよ!]

[俺も、はじめて添乗した電車ですよ!]


 何だ、そっちも思い出のある電車かと、ガラガラの車内で苦笑した。


 いわさきちひろも、東京に出たときは結婚する気がなかったんだ。私は、絵と結婚するのだと。

 ちひろは、戦前に見合い結婚させられた夫が生命を絶っている。画家になる決意とは別に、その後悔もあったのだろう。

 それでも運命には抗えなかった。善明と出会い、活動をともにして、私はこの人と結婚するのだと愛を誓った。


 軍人の娘で、お嬢様暮らしだったから、世間とはズレたところがあったという。東京に降り注ぐ光を中野から眺めて「綺麗」と言ったら、焼夷弾の火炎だった。狭い自宅で結婚式を挙げた日は、なけなしのお金を一本のワインと部屋いっぱいの薔薇の花に変えてしまった。

 そんな話が枚挙にいとまがないほどに、いくつになっても少女のような人だった。


 僕も、白井といるときくらいは馬鹿ばかりやっていた若い頃に戻って、世間と少しくらいズレていてもいいのだろうか。

 次なる一歩を踏み出して、前に進むためならば。

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