第43話『グローイング・ダウン』
[猫にごはんをあげるから、夕方に家を出ます。宿で合流するので、三人で楽しんでください]
この事前にした予告どおり、泊まり明けの夕方に『ごはん』を猫にたっぷりあげて「行ってきます」と、妻と猫に告げて家を出た。
旅行気分を高めるため、東海道線のグリーン車に乗って熱海を目指す。妻と熱海梅園を訪れて以来、何年ぶりになるだろう。難工事で知られる丹那トンネルのすぐそばだから、僕はそちらが気になった。
結局そちらへ向かう都合がつかず、慰霊碑に手を合わせられなかったのが悔やまれる。
熱海駅でバスに乗り換え、弟子たちが待つホテルに向かった。はずが、乗り換えアプリで調べたバスは、熱海の街を大回りした挙げ句、山の奥へと分け入ろうとした。
慌ててボタンで知らせて降車して、地図アプリで目的の宿へと早足で歩く。
ロビーでは、すでに車で先回りしていた弟子たちがくつろいでいる。僕に気づいた弟子が「師匠!」と声を上げたので、落語家じゃあるまいに、と苦笑いをしながらペコペコと詫びた。
「ごめんごめん、バスを間違えたみたいで」
「受付が混んでいますから、大丈夫ですよ」
ワクチン接種の証明書を見せ、鍵を受け取り部屋へと向かう。熱海全盛期を彷彿とさせる昭和の匂いが漂うホテルは、僕にとっては懐かしいが弟子たちには新鮮なようだ。
部屋に収まり、弟子たちが買い込んでくれた夜のお供を冷蔵庫に仕舞う。夕食のバイキングまで時間が空いているから、どこを回ってきたのかと弟子に尋ねた。
「見てくださいよ」
見せられたのは、谷を利用したターザンロープ。
「うわっ、高所恐怖症だから、無理」
ただし、とにかく景色がいい。これが「映える」というやつで、今はこういうのが好まれるのかと、楽しそうな画像を見つめて
「さて、まずは温泉かな」
と、寒気に震えた身体を湯船で温めることにした。
二十代から患っている四十肩によく沁みる……。
かつての栄華そのままのステージつきの宴会場が、バイキング会場となっていた。多種多様の料理は値段相応、ラインナップから客層の中心が僕たちの親世代だと垣間見える。
「うわっ。師匠、寿司ばっかり」
「県央は魚が高いんだよ」
食べては取って食べては取ってを繰り返し、欲望の赴くままに食事をするうち、若返りを通り越して子供っぽいものを選ぶようになっていく。
強制的に時間が巻き戻されていく、清水義範先生の『グローイング・ダウン』みたいだ。そうやって未来を忘れていくのは、その日は寂しくても迎えた過去には寂しさなどないのだろう。
制限時間いっぱいまで食べて呑んで、部屋に戻ると三番弟子がブロックのゲームを取り出した。
「これを崩した人が、カードに書かれた罰ゲームをやります。そんなに無茶振りはしていないので」
と、三番弟子の気遣いが発揮される。
「うわっ、懐かしいな」
「はじめてやるよ」
と、ブロックを指で摘んで引き抜いて呑み、あとに続く家族をハメようとする、緩やかなデスゲームが繰り広げられた。
何度かゲームをするうちに、必死に回避してきた罰ゲームが僕に回った。
「あああああ!……」
苦々しく観念し、折り畳まれた紙片の山から一枚を選んで、恐る恐る開いてみる。
[好きな人を想定して、告白してください]
マジか……。これは中々、酷な内容だ。妻よ、僕は恋をしてもいいのだろうか。
弟子たちに囲まれる中、考えを巡らせながら立ち上がり、目の前にある空虚に向かって愛を告げた。
「はじめて会った日から、ずっと頭の片隅に貴方がいました。……僕と、付き合ってください!!」
物書きらしからぬ格好悪さか、それとも真面目な告白をしたせいか、弟子たちは僕を見上げてポカンとしていた。
「ああ、参った参った」
すぐさま座って酒を煽り、頬を赤く染め上げた。それじゃあ次のゲームだと、崩れたブロックを積み上げていく。
顔の見えないSNSの恋じゃないか、同じことを繰り返してもいいのかと、進むことも巻き戻すことも拒んだ僕は、弟子たちと過ごしているこの瞬間で時間を止めた。
今は全力で遊ぶとき、そう決めたものの寄る年波には敵わない。心地よい疲弊に身体をだらりと弛緩させて、思い思いのお喋りに興じた。
僕の話題は、やはり小説だけだった。
「お陰様で『列車食堂』が、SNSの小説賞で大賞を取ってね」
「おめでとうございます! 本になるんですか!?」
「いいや、朗読動画を作って動画配信サイトで公開するんだ。ゴールデンウイークには公開されるよ。厳しい読書実況でも、今年一番って評価されてね」
二番と三番が「おおっ」と仰け反り、一番弟子が頷いた。音楽関連の動画を配信している彼とは相互にフォローしているから、僕の執筆活動にまつわる投稿はチェックしてくれている。
「夏の配信動画では『課題図書』って言われてね」
と、スマートフォンを取り出したが、ちょっと違う空気を感じて動画を披露するのをやめた。
「ところで、主任って何をやるんですか?」
「そうだ、おめでとうございます」
めでたくないと謙遜し、僕は回答に窮していた。独り立ちして二ヶ月が過ぎても、何となくわかったような、何もわかっていないような、そんな仕事をする毎日だった。
「うーん……駅の仕事って覚えてる?」
「いや、もうだいぶ離れていますから」
「あれから色々、変わってそうなので」
弟子に教えを請おうとしたが、時間は不可逆的で巻き戻せないと、そう教えられたような気がした。
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