第23話『身近な人が亡くなった後の手続のすべて』
何か書いていないかと開いてみたが、役目を終えたのだと知って本棚に仕舞った。
うちの一族は仕事熱心で晩婚が多く、両親も伯父伯母も高齢だから万一に備えてと、妻が買ってきた『身近な人が亡くなった後の手続のすべて』。
その妻が亡くなって、僕がその本を使った。
妻が言った万一の事態には、自身も含まれていたのだろうかと考えずにはいられなかった。
結局、一周忌の準備は親から聞いて記したメモとインターネットを頼りにした。それも互いの両親の都合を聞いて、菩提寺と花屋と割烹料理屋への連絡と、ほとんど電話で済んでしまった。あとは百貨店でお供え物の菓子折を買ってくる、それだけだ。
さて、妻の次は自分の準備に取りかかる。本日、十二月八日は僕の誕生日なのだ。
付き合いはじめて迎えた僕の最初の誕生日には、君は煮込みハンバーグを作ってくれた。僕はその味に感激したが、当の彼女は中の火入れがいらなくて簡単だから「これでいいの? もっと凝ったものでいいのに」と、やや不満気だった。
男っていうのはね、こういうのがいいんだよ。
ということで妻に代わって、僕が僕に煮込みハンバーグを作る。スーパーに行って合い挽き肉を八十グラムだけ買う。つなぎのパン粉と小麦粉と卵は家にある、玉ねぎもシチューのルーも買ってある。
忙しない冬の夕暮れ、あっという間に陽が落ちるからと明かりをつけて、フライパンとひとり用土鍋をコンロに並べる。
玉ねぎを八分の一だけみじん切りにし、合い挽き肉と混ぜ合わせ、ナツメグをまぶす。このナツメグは煮込みハンバーグのためだけに妻が買ったもの、他で使った場面は思い浮かばない。
パン粉と小麦粉を少しだけ入れて卵を割って……卵、ちょっとしか使わないんだ。残った分は、何に使えばいいのだろう。
しまった、妻が残った卵を何に使っていたのか、思い出せない。ふたり分でも余ったはずだ、まさか捨てていたのだろうか、それとも全部入れていた?
薄焼きにしてご飯に被せ、簡易オムライスにでもするか。ならば、残った卵は取っておこう。
土鍋に規定の水を張り、火にかけくし切りにした玉ねぎ、八分の三を入れる。お湯が沸いたらルーを割り入れ、煮込みの準備は万端だ。
ハンバーグだねの真ん中をセオリーどおりに凹ませて、熱くなったフライパンにそっと落とす。焼色がついたらひっくり返し、また焼色がついたら土鍋に入れる。
あとは蓋をして、コトコトと火入れを任せる。
冷凍してあるご飯をレンジで温め、残った卵を薄焼きにする。チキンライスとは言わずとも、バターライスにしておきたいが、急な思いつきだから準備がない。ただの薄焼き卵載せご飯になりそうだ。
あ、野菜がない。ハンバーグとシチューの玉ねぎをしかない。薄焼き卵をご飯に載せて、野菜室からキャベツを取り出す。フライパンと入れ替わりに小鍋を置いて、お湯が沸くまでの間に千切りにする。
沸いたお湯に冷凍コーンをちょっと入れて、キャベツと合わせてドレッシングをかければ簡易サラダの出来上がり。
簡易オムライスにケチャップを……妻はハートを書いたりしていたが、自分が自分に贈るメッセージなど誕生日でも小っ恥ずかしい。色気なくジグザグと……いいことを思いついた、とケチャップを冷蔵庫に仕舞ってから、簡易サラダと一緒にテーブルへ並べた。
鍋敷を置き、土鍋を置いて、自分で自分をお祝いする誕生日ディナーの揃い踏みだ。
「……多いな……」
料理をはじめてすぐの頃は、分量がわからず皿に合わせて作っていた。そうなるとだいたい多く作りすぎて、食後は動けなくなっていた。
久々にやらかした。でも作った以上は、食べ切らなければもったいない。
サラダで口をサッパリさせて、土鍋のハンバーグを箸で切り取って食べる。ひと口大から溢れ出す肉の旨味が鼻へと抜けて、思わず顔がほころんだ。
二回目の、男っていうのはね、こういうのがいいんだよ。
土鍋からシチューをすくい、簡易オムライスへとかける。妻が生きているとき、僕がまともに作れたのがオムライスだった。妻がナポリタンの旅をしたときも、だいたいオムライスを頼んでいたな。
横浜の老舗洋食屋では、どこも巨大だったから、涙目になりながら食べていたな。昭和の日本人は、お米をたくさん食べていたと『列車食堂』の資料で知った。きっと、そのサイズだろう。
うん、薄焼き卵載せご飯にシチューの味だ。旨味はハンバーグに頼ろう。
普通の味が、僕を現実に引き戻した。台所に積み上げられたフライパン、ハンバーグだねのボールと卵を割り入れた器、玉ねぎを刻んだまな板とコーンを茹でた鍋、そして眼下に居並ぶ皿、皿、土鍋。
シンク横の洗い籠には、皿や鍋で難攻不落の山城が築かれている。
乾ききっていないから、今日は水につけるだけにして、洗い物は明日かな。
まったく、男っていうのはね……。
ハンバーグを食べ、シチューで簡易オムライスを食べ、箸休めにサラダを食べて、僕は満腹感で減退した思考力で、生きるのが下手だと自嘲した。
今の僕に必要なのは『身近な人が亡くなった後の手続のすべて』ではなく『身近な人が亡くなった後の生き方のすべて』だ。もちろん、そんな本は家にない。
やはり妻は、自分がいなくなったときのために本を買ったのではない、そう確信した、したかった。
ぼんやりとしたまま、僕は微かにハッとした。
「……そうだ、ケーキがあったんだ……」
まったく、僕っていうのは……。
妻よ、せめて笑っていてくれ。
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