六、戦争の親玉(その一)

 ついにブラッド二号が放たれ、客席は阿鼻叫喚の地獄と化した。

 頭の回路をやられ、完全にイカれた彼は、足元で逃げ惑う膨大な客たちに何度も巨大な拳を打ちつけ、ぶっとく広い足で踏みつけまくった。人間たちは畑に並ぶ無数のトマトのようにぐちゃぐちゃに潰され、私にとって憧れのまっかな血が、ステージにまで川になって流れ込んできた。


 向こうでは無数の肉塊が、白い骨と赤い臓物をむき出して波打ち、そこから錆臭い液体が割れたガラスの隙間からざぶざぶと押し寄せ、私は膝まで浸かった。

 むろん足からの吸収では足りず、四つんばいになって、温かいぬめった血を口からごくごく飲む。向こうで二号が停まることなく殺りくを続けているので、血はいくら飲んでも絶えることなく、私の口は川をまたぐ石橋のアーチのように、しばし微動だにしなかった。



 ふと、目先にゆがんだ顔があるのに気づいた。脳の回路から引き出したのは、ある、やや切羽詰ったときの記憶だった。

 私の顔のすぐ下から見上げる二つの恐怖の目。腕の中で震える小柄な肉体。そして、目の前で膝をつき、懇願する太ったヒゲの男。

「康夫」だ。

 下水の中、血が尽きかけたときに人質にしていた、あのそばかすのある少年だ。


 彼は、あのときとまるで同じ、あの多くの高等動物が備え、特に人間には社会の維持のためにきわめて不可欠な感情である「恐怖」を、あふれんばかりにたたえた見開く目で、ステージのすぐ下から私をカッと凝視している。そういえば、すぐ前は遺族席だ。ここに彼がいたとしても不思議はない。

 以前、彼は父親か誰かは不明だが、彼にとり重要な人物を私に殺されている。だから、今日は私の廃棄を見に来たのだろうが、これで彼も死ぬことになるわけである。


 しかし、最前列にいて、よくまだ生きているものだ。彼だけが偶然、周りで踏まれ、打たれる大人たちの隙間をすり抜けて、助かったのだろう。私がここに現れたときは、彼も大衆と同様、デカブツの二号と対峙する私を憎悪の目でにらみ、マットに叩きつけられたときは、やはり周りと一緒に歓声を上げていたのだろうか。いや、遺族はこの催しに幻滅するように顔をしかめ、総じて大人しめな様子だったから、彼もそうだったのか。分からない。


 はっきりしているのは、彼がそのとき黙っていようが騒ごうが、今は彼の仇である私が、四つんばいでのん気に血を飲むさまを、間近で眺める羽目になっている、ということだ。そして、すぐに彼の血もここへやってくる。親子の血が私のエネルギー源になり、次の犠牲者を出すためだけに、すぐ排出される。

 無数の人間を殺してきたから、こういうことはよくある。一家全滅、一族死滅。全ては、その命を無駄に捨てるために行われる。むろん、私の任務はただの殺人なので、それが達成されれば、無駄どころか成功である。


 ところが「康夫」は、どうしたわけか、なかなか死なない。ずたずたに裂かれて波打つ巨大な肉の丘が、とつじょ数メートルは盛り上がり、彼はその上に乗ったまま、ごろんとひっくり返った。

 単なる死体の山であれば、隙間だらけだからすぐ呑まれて一巻の終わりだったろうが、二号の執拗な殴打と踏みつけにより、死体は繋がった肉のマットになっている。康夫はその上で両足を上げて後転を繰り返し、慌ててうつぶせになって、血まみれの肉の大地にしがみついた。その動きは、ここから遠いので、小川を流れる枯葉に乗ってしまった不運な蟻のようである。


 山に運ばれて小さくなる間際、ふと彼の目が見えた。明らかに私を凝視した。それは蟻のように小さいのに、突き刺すように鋭く、凍りついた怒りと憎悪に満ちていた。

 まあ当たり前だろう。家族を殺したにっくき奴が、そいつの大好きな血の海を泳いで、のん気にくつろいでいるのだから。


 しかし向こうでは相変わらず二号の暴れまわる轟音が響き、会場全体が直下型地震のように上下に何度も揺れに揺れているから、彼もいずれは殺されるだろう。このまま出口まで運ばれて助かる可能性は、ゼロに近い。

 だが、もしそうなったら、それは人間たちが言う「奇跡」と呼ぶものだろう。




<軍人板の書き込みより>

「大混乱の客席を走って、逃げ惑う客たちを入り口に先導するんで精一杯だった。こんなアホ極まりねえ事態を招いて、政権交代どころか首相は死刑だ、死刑。


 そう思っていると、すごいものが見えた。飛び交う怒号と悲鳴、荒れ狂う肉体の波をぬって、一人の背広の女がこっちへ走ってきたんだが、背中に、なんと子供を背負ってるんだよ。あの人殺し、可愛い部下を何百人も平気で見殺しにしてきた鬼畜の師団長が、小学生くらいの男の子をおぶって、逃げてくるんだ。頭から血を被り、全身にちりとほこりを浴びながら、こんなときにいきなり人命救助だぜ。


 一瞬笑っちゃったけど、すぐそれは顔からすーっと消えちゃった。近くにいた私にまるで気づかず素通りして、入り口に近い、人も減ってるまあまあ安全な場所に着くと、榊はガキを背負ったままいきなり立ち止まって、後ろを振り返ったんだ。


 顔がよく見えた。

 今まで散々奴を冷血だの最低だの言ってきた私が、こう言っちゃバカだが、感動したよ。未だに無数の客を潰してぐちゃぐちゃにして暴れまわるデカブツじゃなく、そのずっと後ろにいる奴を、明らかにあいつはにらみつけていたんだ。それも鷲づかみにしたでかい針の束で一気にぶっ刺すような、すさまじい激怒の目だ。

 そして、びっと指さして、周りの悲鳴の渦も吹き飛ぶほどの物凄い罵声で怒鳴りつけた。それを聞いて、興奮で全身の血が煮えたぎる思いをしたよ。

 だってそれは、私が奴を見て思ったことと、まるで同じだったんだ。


 ――ふざけんなよ、こんなことしやがって! そんなとこでぬくぬくして、楽しいかコラああー!

 ――こんの、戦争の親玉が!

 ――戦争の親玉がああー!」



 またも奇妙な体験をした。

 奴を感じ取ったのだ。


 ここからは点でしか見えなかったから、判別できたはずもない。なのに、康夫が肉の丘から転げ落ちた先に、ベージュの服を着た若い女らしい誰かが飛び込むのがかすかに見えたとき、私は確信してしまった。

 私の任務を妨げる唯一の存在、榊エリが、落下する康夫を下で受け止めたのだ。


 しかし、おかしい。

 かろうじて服の色が分かるだけの距離なのに、この血の池になっているステージから、相手を榊エリだと、私が判別できるはずがない。私の目には、何百メートルも先の物体を拡大する装置は付いていない。だから、これは判断ミスだろう。


 そうだ、私の頭脳は彼女のことを色濃く記憶しているから、そのデータから導き出した推測に過ぎない。そして今のところ、それが正しい必要はまるでない。あれが榊でないほかの誰かであっても、任務遂行に全く支障はないからだ。


 それでも、腑に落ちない。ただの推測が、即座に確信になるのは、非論理的である。

 これといい、奴のことで再三起こる不具合といい、私の人工知能も、実はたいしたことがないのだろう。殺人用のロボットに精巧な頭脳などもともと不要だから、一見それでいいようだが、実はこれが任務の妨げになる可能性があるから、厄介なのだ。


 楽しい国民的一大イベントだったはずの私の公開処刑が、転じて彼らの大惨事になり、いま私は思いがけぬ血液風呂のサービスを受けて、優雅にくつろいでいるわけだが、頭の中はそうリラックスしてはいなかった。

 なぜなら、あの小さな点が榊だととっさに判断したのみならず、私の頭脳はもう一つの、あるものを感じ取ったからだ。あの「康夫」が目が放ったのと同質の、氷のような憎悪の「矢」である。そして論理的には、そんなものが、ここまで届くはずもないのだ。たとえあれが本当に榊で、実際に私に向けてそれを放ったとしても、だ。


 私は少しずつ壊れてきているのかもしれない。凛博士は「メンテの必要はない」と言ったが、いくらなんでも、全くしなかったら、いずれは壊れるだろう。そして私は、満員電車に押し込まれてから、博士の顔を一度も見ていないのだ。


 私もそろそろ潮時なのかもしれない。それなら、わざわざ破壊する必要はなかったことになる。

 それをして、この未曾有の大量死である。



 見ていると、弟は本当によく動く。私よりはるかに大量の仕事を一度にこなしている。でかい手と足で、おびただしい人間の大虐殺を続け、私に代わって任務を遂行している。

 本当は私の破壊が彼の任務のはずなので、実際にはしくじっているわけだが、これだけ代わりの業務を果たせば、博士も文句はないだろう。


 ステージに溜まる血はすでに洪水の域に達し、私はその中に頭からすっぽり潜った。血の中はしばらくは頭上の照明を受けて明るい朱色に見えたが、すぐ電気が落ちて真っ暗になった。ホールに響き渡る悲鳴は減ってきている。もう何万人も殺したのだろう。


 どこかで巨大な何かが重く鈍い音を立ててぶちぬかれた。柱が折れたのだ。これはまずいことになったかもしれない。不肖の弟は、アリーナそのものを潰しにかかったらしい。

 まあ建物が崩壊しても、私なら大丈夫だろう。万一、一緒に潰れてここに永久に葬られるとしても、それは博士の責任である。私も鉄くずになるだけで、それ以外に特に何も意味はない。


 そのうち、ゴゴゴゴという爆音に近い奇怪な音の波が周りから押し寄せた。やはりアリーナが崩れ去るのだ。

 コンクリと思しき膨大な圧力が上から私を一気に飲み込んだ。天井が落ちるのだ。

 真っ暗な血の海は、そのまま鋼鉄の闇になった。

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