テセウスの船

玉大福

例えば1隻の船があったとして。その船の部品をネジから板までそっくり取り換えて修理したとき、果たしてその船は元の船だと言えるのだろうか。


腕の中にある確かな重みと体温に、思わず涙がこぼれた。2年前に亡くし、もう二度と味わうことはできないだろうと思っていたその感触をしっかり確認して胸に刻む。

お金を払ってよかった。由美は自分の指先と戯れる赤ん坊を見てそう思った。

児童遺伝子活用法。10歳未満の児童が何らかの理由で死亡した場合、数千万を支払えば死亡した児童と全くおなじ遺伝子の子供を作り出せるという法律。加速する少子化と医療技術の飛躍により実現したが、道徳的な観点などから、今尚物議が醸されている法律だ。

由美は2年前に8歳の娘を不慮の事故で亡くしている。

家財を全て売り払ってお金を工面し、長い順番待ちの列に並び、念願叶ってやっと今日、2人目の娘との再会を果たしたのだ。

「これからまたよろしくね。愛子ちゃん。」

すやすやと眠りながら自分の指を握りしめる愛しい我が子にそう呟く。

一度手から零れ落ちた幸せを、またすくい上げることができた。もう二度と零さぬように、大切に、大切に育てよう。

桜の舞う4月。暖かな春の陽射しを浴びながら、小さな身体をギュッと抱きしめて由美はそう誓った。


第二の愛子は第一の愛子と同様にスクスクと成長していった。冷房の効いた部屋でベットに横たわる愛子はもう首も座っている。

「愛子ちゃん楽しいね〜!」

愛子の死後もずっと捨てられなかった赤ん坊用の玩具、ベッド、洋服。またこうして使えるのがとても嬉しい。お腹を押すと音が鳴るライオンのぬいぐるみをベチョベチョにして楽しむ愛子に、思わず頬が緩む。

今遊んでいるおもちゃは死んだ愛子も好きだった。2年前の記憶と目の前の光景が重なる。やはり愛子は愛子だ。笑った顔も、鳴き声も、好きなおもちゃも、似合う服も全く同じ。

実の所、児童遺伝子活用法を利用することに夫は否定的だった。でも、やはり私の選択は正解だったのだ。だって、またこうして愛子に会えたのだから。

「愛子ちゃん、大好きだからね。」

愛子はきょとんとした顔でライオンをさらにヨダレまみれにしていく。そうそう。私は愛子のこの顔が大好きだった。


冬の訪れを冷たたい風に感じ始めるようになった頃には、愛子はもう1人で座れるようになっていたし、離乳食も食べられるようになっていた。

「まんま!」

「愛子ちゃん、あむあむ上手だね。」

そういえば、愛子は10年前もよく食べる子だった。昔のことを懐かしみながら愛子の口に柔らかくしたお米を運ぶ。

8歳の愛子も好き嫌いせずにほとんどなんでも食べた。特に納豆とバナナが好きで、強いて言うならカレーはあまり好きじゃない。

愛子の口に付いたお米を拭いながら由美は楽しそうに笑った。

「その先も今の愛子ちゃんは教えてくれるもんね。早くおしゃべりしたいな。」

1回目はそれしか知れなかった。でも今回はその先もある。

一切増えないベビー用品と溜まる洗濯物の山。愛子への関わり方をめぐって夫との仲はどんどん険悪なものになっていたが、そんなものはどうでもよかった。

(だって私は新しいこの子を知れるんだ。)

「愛子ちゃん、もう一口。あ〜ん。」

使い古された愛子の冬用の洋服は生地がテロテロで、少し寒そうに見えた。


春夏秋冬を過ごし、ついに1年が回った。

今日は愛子の誕生日。小さなショートケーキにロウソクが一本立てられている。

10年前は由美の両親も呼んで、1歳になった愛子を賑やかに祝った。けれど今回は、あれからさらに関係が悪化していた夫は言葉とこの小さいケーキのみ。 愛子の件で意見が合わなくなっていた両親からは「おめでとう」の一言も貰えなかった。

「ごめんね、愛子ちゃん。でも代わりにママがたっくさんお祝いするからね。」

必至にケーキへと手を伸ばす愛子を抱きしめて由美はそう言った。なぜ突然抱きしめられているのか訳が分からず、愛子はきょとんとした顔で由美を見つめる。

11年前から何一つ変わっていない子供部屋以外は随分散らかってしまった家の中で、由美と愛子は二人静かに誕生日を祝った。その日愛子が貰ったプレゼントは、父親からのショートケーキだけである。極端にお下がりで育てることに執着する由美は、3年前に死んだ愛子が使っていたものしか愛子に与えなかった。

「そうだ、愛子ちゃん。バナナと納豆ご飯あるの。もってくるね。」

ニッコリと愛子に笑いかけて冷蔵庫へ向かう。

この時、すでに由美は精神に異常をきたしていた。

愛子が死んだ愛子と異なる言動をすると激しく取り乱し、厳しく叱った。

最近ではついに手を上げることもあり、由美が愛子に怒る度に、夫と由美は衝突した。

「大丈夫だよ。愛子ちゃん。ママが全部守ってあげるからね。」


愛子と由美の再会から2年と10ヶ月後。

二人目の愛子と由美は引き離された。

近隣住民からの虐待の通報を受け、警察は家へと向かう。保護された愛子の体には、複数の叩かれた跡が見つかった。この頃には夫とは離婚、実家ともほぼ断絶状態にあった由美は、虐待の疑いで逮捕され、愛子は児童施設に預けられた。

「テセウスの船って、しってますか?」

分厚いガラス越しの弁護士に、由美が語り掛ける。

「私、初めは"いくら部品を替えても元の船には変わりないじゃん"って思ってたんです。」

冷えきった部屋でポツポツと語る由美の姿に、あの日の慈愛に満ちた表情は欠片も感じられない。

「でも、違った。違いました。」

「見た目は愛子だけど、あの子は愛子じゃないんです。」

絞り出すような枯れた声には生気が宿っておらず、正に空っぽだった。

「愛子なのに愛子じゃない。また会えたと思ったら違った。あの子が愛子じゃないって認めたくなくて、私は無理やりあの子を愛子にしようとしてしまいました。」

俯く由美の表情は伺えない。

「部品が違ったら、それはもう元の船には戻れないんです。」

窪んだ目とくっきり浮かんだ鎖骨を見れば、由美の精神の病み具合がどれ程のものなのか分かる。

由美は耐えられなかった。確かに面影のある愛子が、死んだ愛子とは別の存在になっていくことが。別人と言うには似すぎていて、本人だと言うには違いすぎていた。

「弁護士さん。あの子に、愛子に、謝罪の言葉を伝えておいてください。」

その言葉を残して、由美は面会室を後にした。

この数週間後、独房内で由美は自ら命を絶った。それは皮肉にも、あの始まりの日と随分似た、よく晴れた春の日だったらしい。

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テセウスの船 玉大福 @omochikun

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