黒になれ!

猫矢ナギ

黒になれ!


 隣の席のこの女は。それはそれは真っ直ぐな目で、なんてことのない顔で。

 俺と視線がかち合った途端、確かに一言、零れ落としたのだ。間違いなく、俺に対して。


「ぐちゃぐちゃ」


 ──と。

「…………は?」

 そんな俺の純然たる抗議の声音は、直後に教壇から発せられた担任の声によって掻き消された。



 ▼



 昼休みの時間を迎えても、朝のアイツのあの顔と声が頭から離れない。

──まったくもって意味がわからない。

 隣の席の若竹わかたけ千歳ちとせは、常にぼーっとした変人ぼっち女である。いや、友人はいるようだが、まともに会話している姿を見た覚えがない。ただ居るだけ。そんな印象を受けるほど無口な女だ。

「くっそ……イライラする」

 若竹にではない。アイツのことも意味が分からなさ過ぎて苛立つが、それ以上に自分に対してだ。

 教室を出る前に、担任に呼び止められた。「最近成績落ちてるけど、大丈夫か?」と。ただの気遣いであるのは分かっている。何かあったなら相談に乗る、とまで気に掛けてもらえるのは有難い話だろう。

──その優しさがつらい痛いんだよ。

 自分の惨めさが。ダメさが。丸見えなくらいまるで助けを求めてるみたいで、情けなくて嫌になる。

「ああ、ちくしょう……っ」

 廊下に響かない程度にぼやきながら。我ながら子供っぽく床に怒りをぶつけたつもりで、力強く右足を踏み出した時。

 その爪先に、何かが当たった。

 やや重い感触に気が付いた時には止める余裕もなく、次の瞬間にはプラスチックが床に当たる音。そして、ひっくり返ったバケツから、廊下へと流れ注がれる液体の音が容赦なく耳に入って来た。

 目の前に転がった変色するほど使い古された絵具塗れのバケツが、俺のやらかしをこれでもかと見せつけてくる。

「あ゛~~~~」

 思わず頭を抱えながら、声を殺して呻いてしまう。

 こんなことしたって仕方ないというのに。人間はテンパると、本当に自分でもバカだと思う行動を取ってしまうものなのだ。たった今、実感した。

「ごめんなさーい。水換えに行こうと思って置きっぱなしだったー」

 すぐ真横の教室から、そんな気の抜ける声がやって来る。どうやら派手に水をぶちまけた音で、何が起こったのか察したようである。

 ぱたぱたと妙に軽い足音は、すぐそこまで近づいていた。

──いかん。しっかりしろ俺。

 外面を取り繕うことだけは得意なのだ。どうにか冷静さを取り戻すことが間に合った。

「俺の方こそすみません。今片づけま──」

 床に映る人影を見て顔を上げると、その教室『第二美術室』の中から現れたのは、見知った女だった。

「あ。委員長」

「……若竹、千歳……」



「本当にごめんなさーい。水、かからなかった?」

「別に。大丈夫」

「そーお? ほんとに?」

 床に湖を広げる色の付いた水を、廊下に屈んで二人して古新聞やら雑巾で堰き止めながらそんな会話をする。

 事実、筆洗バケツを蹴り飛ばした俺の足元は、特に被害を被らなかった。見事なまでに、すべては俺の進行方向に飛び散っていったのだ。

「委員長、私の名前知ってたんだねー」

「隣の席なんだから、嫌でも目に付くだろ。そもそもお前の言う通り、クラス委員だぞ俺。自然に覚えるだろ」

「えー? でも下の名前まで覚えてくれてるとは思わなかったけど」

 それにしてもさっきから、妙にコイツの視線が気になる。

 まるで水族館で謎の深海魚でも見てるみたいに、観察されている気分なのだ。

「お前の方こそ、思ったよりよく喋るんだな」

 正直なところ、驚きだ。クラスで数人の女生徒でかたまって話してる時なんか、コイツはじっと話を聞いているばかりの印象だった。

「? 今は委員長と二人だけなんだし、話さないと会話出来ないじゃん」

「~~~~っ。それは、そうだが!」

──頭が痛くなるようなこと言うな!

 ふと、手に持った雑巾が、これ以上吸い取れないほど水浸しになっていることに気が付く。

「あ。委員長、次はこれ使って」

 新たに若竹から手渡された使い古しの雑巾は、水溜まりの上に落とすと見る見るうちに濡れていく。そして、その身を水と同じ色に染めていくのだ。

「…………黒」

「え?」

「あ、いや、この水。黒いなと思って」

 青っぽいような、赤っぽいような、それとも緑か。ところどころ別の色が見える気もするが、総括すると黒というか灰色に近い。率直に述べていいなら、正直汚い水である。

「あー……ははは……。これは、私がめんどくさがってここまで汚しちゃったから、と言うか。いろんな色が混ざると、最後は黒っぽくなっちゃうからね」

「いろんな色、ね」

 言われて見ると、何百万と種類があるという、色のなれの果てのような悲哀を感じてくる。今現在床の上に揺蕩うこの液体は、泥水同然の様相だ。

「俺の頭ん中みたいだ」

 息苦しい家の中。上手くいかない学業。思うようにいかない日々の全て。そして、そんな自分。

 どうにもならないことをひたすら考えて、考えすぎて、わけが分からなくて、ぐちゃぐちゃに入り混じった。混線した思考回路。


「────違うよ」


 耳に届いた、涼やかな否定の言葉にぎょっとする。

 心の中で呟いたつもりの思春期丸出しのポエムが、口から漏れ出ていたことにようやく気が付いた。

「その、今のは……」

 慌てて誤魔化そうと言い訳を口にしかけた俺に、若竹は何故かあの時と同じ、逸らせなくなるほど揺るぎない視線を向けて言った。


「そんなのじゃないよ、委員長の色」


 恥ずかし気もなく放たれた、その言葉に呆気に取られる。

 相変わらず意味は分からないが、コイツの表情にも声色にも、まるで嘘や嘲りのようなものは感じられない。

「でもお前、俺が朝に挨拶した時、言ってなかったか? 『ぐちゃぐちゃ』、とかなんとか」

 せっかくだ。朝から俺の思考のノイズになっている、あの時のコイツの真意を聞かせてもらおう。

 そう思って訊ねたのだが……。

「…………え゛!?」

 若竹は突然、初めて耳にするような奇声を上げると、顔面を上気させて固まってしまった。

「は?」

 俺としても感嘆詞で返すほかない。

「……あれ、聞こえてたの?」

「? ああ」

 どうやらあの発言は、俺のポエムもどき同様、本人的には口に出した自覚のないものだったようだ。

「それで。なんなんだよ、ぐちゃぐちゃって。失礼だろ、人に向かって」

 あまりにも恥ずかしがるので、なんだが面白くなって攻勢に出てしまった。

「んっと、そのー……」

 今度はどうやら言語化に悩んでいるらしく、もごもごとはっきりしない口ぶりだ。やがて吹っ切れたのか、若竹は不意に立ち上がり、堂々と申し出た。

「委員長っ! 放課後! 時間ありますか!」

「まあ先生から呼び出しなければ、特に予定はないけど」

「それじゃ、放課後また会お!」

 濡れた雑巾を全てバケツに押し込み、そう言って若竹は近くの手洗い場目掛けて歩き去って行った。

 残された俺は、とりあえず微かに残った水滴を余った新聞紙で拭き取っておくことにする。濡れた廊下で誰かが足を取られれば、骨折沙汰にでもなりかねない。

「……ていうか。同じクラスで隣の席なんだから、休み時間終わったら会うだろ」

 俺のツッコミは、誰に届くでもなく遠くから響く昼間の喧騒に紛れて消えた。



 ▼



 あれから、午後の授業中。

 自然に視界に入るが、やっぱり教室に居る時の若竹は、昼休みとは雰囲気が違った。嘘みたいに静かに、人の話声に耳を傾けるばかりで全然喋らない。


 もしかして昼間の出来事は俺の幻覚だったのか、と自分の記憶と脳を疑いかけていたのだが。

「委員長、約束覚えてる?」

 授業が終わるや否や、隣から肩を突かれてこそこそと囁かれた。どうやら幻覚説は消えたようだ。

「一緒に来てくれる?」

「どっか行くのか?」

「お出かけとかではないんだけど……。さっきの美術室」

 言われるがまま、若竹に付いて行く。二人で歩いている最中も、若竹は喋らない。代わりに校庭やら体育館から聞こえる、運動部の声がやたら耳に入った。


 連れられて舞い戻ることになった、第二美術室。

 昼間通りがかった時と違い、カーテンは閉め切られ、電気の消された室内は暗闇に等しかった。

「部活で使ってるんじゃないのか?」

「今日はお休みー。だけどどうしても描きたかったから、今日は先生に許可貰って描く場所借りてたの」

 若竹は電灯を点けた室内を迷うことなく進み、部屋の隅に置かれた乾燥棚に近寄ると、網状の棚の中から一枚の紙を抜き出した。

「はい、これ」

 差し出された紙を反射的に受け取ってしまったので、とりあえず目を通す。

「……なんだこれ」

 一枚の画用紙に、ただ塗りたくったようにしか見えない、大量の色がびっしり敷き詰められている。

 形なんてものが何一つ描かれていない、ただ試し塗りしたような。これでは絵画というより、パレットそのものである。

「どう思う?」

「芸術とかわかんねーから、素直に言っていいか」

「どーぞどーぞ」

「……ごちゃごちゃしてる」

 そりゃこんな色を全部突っ込まれた筆洗バケツの水は、あれほど黒くもなるだろう。そう思わせられる混沌ぶりだが、俺の回答を聞いた若竹は不思議と楽しそうにくすくすと笑っていた。

「? なんだよ」


「それねー。朝、私に『おはよう』って言ってくれた時の、委員長の声の色だよ」


「……すまん。何言ってんだ?」

 意味のわからない女だとは思っていたが、当然のように言っていることも意味がわからない。

「私ね、人の声を聴くと色が見える……というか感じる?んだよ。自分でも謎なんだけど」

 そこまで言われて、思い至る。何かで読んだことのある話だ。確か、

「共感覚……ってやつ、だっけ?」

「うーん。どうだろ。それなのかなぁ」

 共感覚。シナスタジア。

 文字や数字に色が見えたり、音や味覚に色を感じる、という知覚現象。詳しくは知らないが、そういう感覚を生まれ持った人が存在する、というのは知識として目にしていた。

「伝わらないかもしれないんだけど、私……色は感じるんだけど見えるわけじゃなくてね。感じた色を目に見えるようにしたくて、絵にしてるの」

「お、おう、なるほど?」

 とりあえず、この絵の作成意図は理解した。知ってから改めて、手の上に広がる画用紙に踊る絵具たちに目を落とす。

 芸術というものは、不思議だ。

 若竹の話を聞いてから見ると、確かに段々と、俺の感情みたいなものを反映した絵図のように思えてきた。

──待て。というか、つまり、若竹にはずっと俺の声が……。

「悪い、なんかめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた……」

「えぇっ?」

 画用紙を若竹に突き返しながら、思わず顔を逸らした。

──はずい。恥ずかしすぎる。なんだこの乱雑な色合い。嘘だろ? 嘘だと言ってくれ。

 俺の反応に何か気が付いたのか、若竹が慌てた様子でフォローしてきた。

「ちょ、ちょっと待って! これは、私もびっくりしたくらい、初めて見た色だったから!」

「……どういうことだ?」

「私が人の声に感じる色は、その時によって違うの。今だってほら、委員長の声の色は紫っぽいピンク色だし」

 いや、言われても確かめようもないが。

「だからね、よく見て、この色!」

 正直もう恥ずかしすぎて目にも入れたくない絵を、若竹は俺に向けて広げながら人差し指で差して見せる。

「こんなにたくさん色が付いてるのに、全然混ざってなくて、ぐちゃぐちゃになってないでしょ? だから不思議だなーって思ったのが、あの時声になって出ちゃったんだよ」

 言われてみれば、雑然としてはいるが、あの水のように汚い印象は受けない……ような気はする。

 めちゃくちゃで、ごちゃごちゃしてはいるが、ぐちゃぐちゃではないワケだ。

「変な話だな」

「でしょ? だから残してみたかったの」

 言いながら、天井から差す電灯の明かりに、若竹は手に持った画用紙を照らし見た。

 なんとも複雑な気持ちだが、そんなに得意気に微笑まれると、朝のイライラなんてものをすべて許してしまいそうになる。


 話も終わったし帰るか、と美術室を去ろうとした俺に、若竹が声を掛けてきた。

「あのね、こんなの見せちゃったけど、委員長の色は別にあるの。二人で話してる時に見つけたんだよ」

「俺の色?」

 もう勘弁してくれという気持ちで、しかし無下にするにも話を聞きすぎたので仕方なく振り返る。

「黄色! 今もだけど、委員長が話す時に一番たくさん感じる色なの。だからきっと、一番自然な委員長が黄色なんだろうね」

 またわけのわからないことを。

「はいはい、そうですか。また明日な」

「うん。また明日! 今日は話聞いてくれて、絵も見てくれてありがとー」

 美術室の戸締りを始めながら、小さく手を振る若竹に振り向くことなく片手だけ挙げて返す。


 本当に。本当に本当に、わけがわからん。

 そう思いはするものの、俺は気が付いてしまったのだ。

 若竹千歳とかいうあの女のおかげで、今日昼以降の俺の思考はきっとあの絵の色にはなっていなかったであろうことに。


 今、俺が声を出すと、若竹には何色に感じるのだろう。

 明日から、俺はアイツに声を掛ける時、嫌でも想像してしまうことになる。どうかこの照れくさい感情が見透かされませんように。俺の言葉に色を付けないでくれ。

 そして考えるのだ。もういっそ全部混ざって、黒くなってくれればいいのに、と。



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