彼女が見知らぬ男と駅前でデートをしていた。え、婚約者ってどういうこと?

Q輔

彼女が見知らぬ男と駅前でデートをしていた。え、婚約者ってどういうこと?

 有り触れた駅前商店街。まばらに行き交う人の波。後方に広がる何の変哲も無い住宅街。自動改札機に切符を喰わせて駅の階段を下りると、そこには、相変わらず絵に描いたような陳腐な景色が広がっていた。


 三年ぶりに地元に戻った。二度と上京することはないだろう。夢は終わった。やるだけのことはやった。悔いはない。ロックへの情熱の一切合切は、東京へ捨てて来た。そうだよな自分?


 さあ、実家に帰って、先に届いている引っ越しの荷物を整理して、明日からは真面目に就職活動をしなくちゃな。俺は今年で二十五歳。オジサンと呼ばれるにはまだ早いが、若者と呼ばれるには、いささか無理が生じる年齢だ。そうだろう自分?


 おいおい、て言うか自分。お前には、就職活動より先に、大急ぎでやらねばならないことがあるだろうが。それは、夢と引き換えに台無しにしてしまった、お前の恋人との関係を取り戻すことだ。


 取り留めのない自問自答をしながら、ギターケースを左手に持ち替えると、俺は自宅に向かって歩き始めた。


「あれ? 桜井君じゃない?」


 すると、俺の背後から、たまらなく懐かしい声がした。


「ほら、やっぱり桜井君だ。後ろからでも、ギターケースの色と形で、すぐに分かったよ」


 振り返ると、そこには、まさに俺が夢と引き換えに台無しにしてしまった恋人がいた。


 彼女の名前は、落合千佐子おちあいちさこ。俺たちは、高校一年から俺が上京する寸前まで、ずっとこの地元でお付き合いをしていた。


 俺は、かつて彼女のことを「おチビ」という愛称で呼んだ。彼女の名前を文字ってか、彼女が小柄な女性だったからか、彼女がいかにも末っ子らしい性格だったからか、何故自分の恋人を、そんな愛称で呼ぶようになったのか、付き合いが長すぎて、今更思い出しようがない。


 ちなみに、彼女は、かつて俺のこと「おバカさん」という愛称で呼んだ。この愛称は、俺の名前を文字ったわけでも何でもなくて、ただ単純に、俺がロック狂いの大馬鹿野郎だったからだ。


 千佐子と俺、つまり、おチビとおバカさんは、二十歳を過ぎてからは、同棲をするほどの深い関係になった。


「やあ、落合さん、久しぶり」


 桜井君? 落合さん? ひ~、気持ちわる~。お互いを苗字で呼び合うなんて、彼女との長い付き合いの中で、恐らくこれがはじめてじゃね? 

 しばらく会っていなかったとはいえ、その昔同棲までした男女が何故こんなに他人行儀に呼び合うのか、その理由は、お互いに言わずもがなのこと。

 だって、彼女の横には、俺と同じ年ぐらいの見知らぬ男が、彼女の腰に手を回して寄り添っていたから。


「桜井君、紹介するね。彼は、私の婚約者の徳川さん」


 ……婚約者? 錯乱する頭を整理しつつ「はじめまして。桜井です」俺は辛うじて大人の振る舞いをした。


「ねえ、徳川さん、ほら見て、じゃーん、こちらがかの有名な、私の元カレの桜井君でございます」


「おお、あなたが、千佐子の思い出話に必ず登場をするあの元カレさんですか。いや~、お噂はかねがね伺っております。その節は、千佐子が大変お世話になりました」


 徳川と名乗る見知らぬ男は、とてもフレンドリーに僕の右手を取り、その大きな両手で僕の手を包み込むように握手をした。


 て言うか、おチビよ。婚約者ってどういうこと? 元カレってどういうこと? 俺は、君と別れたつもりは、これっぽっちもありませんけど?


 そりゃ確かに、三年前、君を地元に置き去りにして、プロのミュージシャンを夢見て上京したことは、申し訳ないと思っている。でも俺は、成功したあかつきには、君を東京に呼び寄せて、結婚をするつもりだったんだ。本当だよ。

 そりゃ確かに、上京をしたばかりの頃、地元からまめに連絡をくれた君を邪険に扱ったことについては、申し訳ないと思っている。でも俺は、あの頃なかなか夢を掴めない自分に苛立ち、行き詰まっていた。だから、こちらから連絡をするまで電話を掛けてくるな! なんて酷いことを君に言ってしまったんだ。決して君を嫌いになったわけじゃない。俺は君のことを片時も忘れたことはなかった。信じてくれ。


 な~んて苦しい言い訳が、とてもじゃないけど、言える空気じゃないんだな、これが。


「ねえねえ、桜井君、私たち、これからお茶しようと思っていたところなの。桜井君も一緒にどう?」


 そう言って、彼女は、男の腕に手を回して、体をこれでもかと密接させる。まったくよ~、すんげ~ラブラブじゃねえか、こいつら。


「急いでいるの? お茶をする時間ぐらいあるでしょう?」「……いや、その」「さあ、元カレさん、お茶を、ぜひぜひ」「……でも、あの」結局俺は、彼女たちに、半ば強引に付き合わされる羽目になった。



――――



 俺たちは、駅前の古い喫茶店に入った。その喫茶店は、俺と彼女が、学生時代に暇さえあれば時間をつぶした店だった。仲睦まじく並んで座る二人と、俺は向かい合わせに座る。いみじくもその席は、俺と彼女が、その昔、勝手に「指定席」と呼んで座っていた陽当りの良いお気に入りの席。俺たち三人は、ホットコーヒーをすすりながら話をする。


「桜井君、私ね、今年の五月に、徳川さんと結婚をするの」


「あ、そうっすか。へ~、それはそれは」


 いやいや、まだ君と付き合っているつもりの俺に向かって、決定的なことを、随分と軽々しくおっしゃるのね。それを言われて、俺、どう答えたらいいわけ? ああ、自分の顔が引きつっているのが分かる。二人の前でどんな顔をしてよいのか、さっぱり分からねえ。

 悲しいなあ。何が悲しいって、自分の彼女が、どこの馬の骨とも知れぬ男と目の前に並んで座っている時の、このフォルムよ。なんつーか、この二人、一体感が半端ねえの。ちょーお似合いなの。


「桜井さんは、ミュージシャンなのですってね。よろしければ、僕たちの結婚式で一曲歌っていただけませんか?」


 目をキラキラと輝かせながら屈託なく男が言う。何なんだよ、この男の晴れ晴れとした感じはよ。正直、苦手なタイプ。こちらから目線を合わせにくい相手。

 結婚式で歌えだぁ? 冗談キツイぜ。古い友人・知人の前で、俺を公開処刑する気かよ。

 

 この地元で同棲をしていた頃、彼女は、俺の全てが好きだと言ってくれた。きゃしゃな体形も、腰まで伸びた長い金髪も、ロックファッションも、ひねくれた性格も、しゃがれた声も、煙草臭い体臭も、全てが自分のタイプ。どストライクな存在だと。

 ところが、今目の前にいる男ときたらどうだ。大柄の筋肉質。爽やかな短髪。スポーツウエアファッション。誠実そうな人柄。澄んだ声。煙草は吸わない。

 百歩譲って、この男が彼女の婚約者だとして。え、どういうこと? 俺とはあまりにも似つかぬタイプじゃね? あの言葉は何だったの?


 しばらくギクシャクとした雑談を続けた後、自然と会話が途切れた。すると「すみません。僕、トイレに行ってきます」そう言って男が席を立つ。テーブルに残された俺と彼女。


「……桜井君、いつ戻ってきたの?」


 さっきまでとは明らかに違う、重い口調で彼女が訊ねた。


「ついさっき駅に着いたところ。本当に偶然落合さんに声を掛けられたんだ。もっとも、今日はたまたま実家に用事があって一時的に帰郷しただけだから」


 なんでそんな嘘をつく自分?


「まだ夢を追いかけているのかしら」


「勿論さ。実家の用事が済んだら東京へとんぼ返り。多くのファンが俺を待っているからね。そうだな~、来年あたりメジャーデビュー出来そうかな」


 ああ、嘘の上塗り。もう取返しが付かない。俺の馬鹿。


「落合さんは、いつから彼とお付き合いをしているの?」


「二年前からよ。私が毎晩桜井君のことを想って泣き暮らしていると思った? 自惚れるのもほどほどに」


「あれれ? そもそも俺は、落合さんと別れたつもりはないけど」


「ねえ、桜井君。ずるいよ。自分だけ被害者ヅラしないで。私たち、さっき駅前ですれ違ったんだよ。私たちは、お互いの存在に気が付かず、お互いを素通りしたの。あなたは、私が声を掛けるまで私に気が付くことはなかった。私は、あなたの存在ではなく、あなたのギターケースの色と形であなたに気が付いた。

 これが、三年前なら、きっと違った。私たちは例え迷路のような群衆の中にいても、お互いを瞬時に見つけ出すことが出来た。桜井君、自分の胸に手を当てて聞いてみて。私たちの関係はもうとっくに終わっている。それは桜井君が一番よく分かっていることでしょう?」


「そんなことは、こっちだって薄々分かっているよ。でも俺は、落合さんみたいに前向きにはなれない。元恋人のことなど綺麗さっぱり忘れて、簡単に次に行くなんて薄情なことは出来ない。凄く引きずると思う。

 ねえ、落合さん。俺はね、人生とは、後ろを向いて前進をするようなものだと思っている。俺たちはみんな、後ろ歩きで、未来に向かって歩いているんだ。

 前を向いて歩いたところで、未来は見えないよね。だからいっそ後ろを向いて歩く。後ろを向くと、自分の過去が見える。今日まで自分が歩んできた道が見える。過去に歩んだ道の形状や、広さ、曲がりの角度から、俺たちは未来への進み方を予測することが出来る」


「へ~、なんだか賢いことを言うようになったわね。でもそれ、あなたの考えじゃないでしょう? どうせSNSか何かの受け売りでしょう?」


 ぐ、ぐうの音も出ねえ。


「例え桜井君の言うことが真理だとしても、それでも私は、徳川さんと共に見えない未来に向かって、前を向いて前進します。桜井君はこれからも、後ろ歩きでせいぜい頑張れ。蹴つまづかないように気を付けて」


 うわ~、俺への未練なんて、片鱗も無いのね。


「徳川さん……だっけ? トイレ長いね。ウンコかな?」


「きっと、私とあなたのことを考えて、あえてトイレで時間を潰してくれているのよ。徳川さんはそういう人だから」


「そうかな~、俺を君たちの結婚式で歌わせて、晒し者にしようとするヤツだぜ。そんなデリカシーがあるようには見えないけどな」


「徳川さんは、物事を斜め四十五度から見ることしか出来ないあなたとは違うの! 物事を真っすぐに見ることが出来る素晴らしい人なの! 徳川さんを二度と侮辱しないで!」


 やがて男は席に戻った。それから俺たちは、何事もなかったかのように喫茶店を出る。店を出ると、男のスマホの着信音が鳴る。「ごめん。仕事の電話」そう言って男は、俺たちから少し距離を取ってスマホの相手と話始めた。


「……桜井君。元気でね。さようなら。次に会う時、私は徳川千佐子とくがわさちこです」


 その間に、彼女が僕に別れを告げる。ここまで来たら、俺も陽気にお別れをしよう。


「さようなら、おチビ」


 あ、しまったああ! うっかり付き合っていた頃の愛称で呼んでしまったああ! 俺は、恐る恐る彼女の顔を見る。

 

 その時。俺は自分の目を疑った。目の前には、かつて永遠の愛を誓い合った頃のおチビがいたのだ。


 おチビは、婚約者から見えない角度で、こっそりと俺に向かってゲンコツを作って見せ、


「こらっ、おバカさん!」


 あの頃のままの無邪気な笑顔で、悪戯っぽく笑った。


 あの頃の二人に戻った。それは、ほんの一瞬の出来事だったけれど。


 ああ、終わった。俺たちは、終わったんだ。どういうわけか俺は、この時、心から素直にそう思えた。


 電話を終えた徳川さんに「おチビのこと、頼みます。幸せにしてやって下さい」と言いかけて、まったくどの立場からの物言いなんだテメエはよ、と慌てて思い直し、


「徳川さん、結婚式、楽しみにしています。お二人のために、ぜひ一曲歌わせて下さい」


 それだけを告げて、二人に頭を下げた。


 商店街を手を繋いで歩く元カノとその婚約者を見送りながら、俺は何とはなしに、後ろ歩きを始める。目の前に広がる過去の風景から、見えない未来を予測して、一歩、二歩と、慎重に後ずさりをしてみる。ああ、なんと滑稽な前進だ。なんと不格好な人生だ。


 途端に蹴つまづき、豪快に後方にぶっ倒れる。


 イテテと立ち上がり、背中の砂を払って、ギターケースを掴む。


「あれれ? どっちだっけ?」


 辺りをキョロキョロと見渡し、進むべき未来を、俺は探した。

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