彼の人への情緒〜夏の館の魔女〜

青樹春夜(あおきはるや:旧halhal-

彼の人への情緒〜夏の館の魔女〜


 濃い青の空に白く熱い陽が射していて、青年はおやまの麓で上着を脱いだ。


 振り返ればまだ春を迎えたばかりの港町。これからの観光シーズンを前に、色とりどりのヨットが気の早い蝶のように海辺を埋め尽くしている。


 そしてこれから青年が向かう先は夏の島の支配者、夏の館の主・夏夜カヤ様の住まう山だ。


 銀の時代と呼ばれるこの時代は神々が姿を消し、その名残があちこちに栄華の残滓ざんしとして見られる時代——。


 夏を司る精霊・夏夜カヤ様は青年の憧れであった。


 ——ここまで暑いとは……。


 港町は春だが、おやまは夏だ。


 夏向きの服装で伺うべきだったかと、青年はやや後悔した。汗だくであのお方に会うのも少々気詰まりだ。いや、みっもないなりで美しいあのかたの前に出たくない。


 早くも汗ばみ始めた白いシャツを恨みながら、青年は夏の館を目指して山を登り始めた。





「……どうも、町長の、使いで参りました」


 乱れた息を整えながら、青年は出迎えに出た白髪の執事に挨拶をした。老執事は片眉を上げて、汗で濡れた青年の顔を無言で見つめた。


「……あの……?」


「御予約はうけたまわっております。こちらへ」


 老執事はそう言って青年を屋敷の中へ案内した。


 白亜はくあの城とでもいうべき邸宅は、夏の館に相応ふさわしく色とりどりの花々が飾ってある。町では見たことのない熱帯の鮮やかな花が白壁に映えて、まるで絵画のようだ。


 風通しの良い小部屋に通されると、老執事は無表情のままクローゼットを開いて中にかけてある衣服と青年とを見比べる。それからハンガーにかけてある上下一式の夏物の服と、下着と靴下を低い猫脚ねこあしのテーブルに並べて青年に着替えるように指示をする。


「お着替えが済みましたらお声がけください」


 うやうやしく一礼すると、老執事は部屋を出ていった。





 正直なところ、着替えを提供されたのはありがたかった。夏向きのシャツに着替え、風通しの良い上質の麻のジャケットを羽織ると男ぶりが上がった気がする。


 汗でぐちゃぐちゃになった衣服はランドリーボックスに放り込んだ。きっと館を辞す頃には全て綺麗に洗濯されているのだろう。


 ただの着替えの為の小部屋だがまるで高級なホテルのようだ。テラスに出れば手すりの向こうには真っ青な空と海が広がっている。


 ——さすが夏の館だなぁ。


 リゾート地として中央島アルカ・ディアからも大陸からもたくさんの観光客が訪れるのも無理はない。


 青年が今日、館を訪れたのも、その観光業について町長が館の主に意見を求めた為だった。


「あのぅ」


 廊下に出て老執事を探すが、声をかけても誰も来ない。仕方なしに青年は元来たホールを目指してみた。熱帯の花の香りが強く香って、彼の心を浮き立たせる。彼の中では長い夏季休暇バカンスの気分がむくむくと湧き上がって来た。


 その冒険心が、彼の足を二階へ向けた。上階にはおそらくあの方が居るはずだ。


 熱帯の花のような、あの方が。




 青い風が吹き抜けて行く。


 夏の香りだ。


 高い天井を持つ廊下には所々にプロペラが据えてあり、ゆるゆると空気を動かしている。


 その微かな音しかしない静まり返った上階は、中央島アルカ・ディア商店街バザールを思わせる迷路のよう。


 夏の熱気と花の香と。

 それでいて流れる清涼な夏の風とが青年の情緒を惑わせる。


 長い廊下の先には——。


 白いバルコニー。


 溢れる夏の緑と赤や黄色の鮮やかな花々。濃い青空と濃紺の海。陽の光を遮る天蓋の下、豪華な長椅子が置かれ、その上に真っ赤なドレスを見に纏った女性ひとが寝そべっていた。


 肩と背中をあらわにした美しい女性は、艶やかな黒髪を夏の果実がたわわに実るのに似たくるくるとした豊かな巻き毛にしていて、長いまつ毛は青い影を目元に落とし、南国の花のような赤い唇が白い肌を彩っていた。


 ——なんてあでやかな。


 ほう、とため息が洩れる。


 ——あの肌に触れたい。


 眠っているのか、その女性ひとまぶたを閉じたまま動かない。


 青年はそっと彼女に近づいた。手を伸ばせばそこに、人ならざる者の美しい肢体——。


 青年は我知らず、ごくりと喉を鳴らした。


 その音が彼女の耳に届いたのか、夏の館の主は大きな黒い瞳をぱっと見開いてこちらに向けた。


「……何奴なにやつ?」


「え、あの、僕は——」


 相手のあまりの声の低さに、青年は慌てた。さっきまでの浮かれ気分は冷徹な声に吹き飛び、夏の空気が急激に冷たくなって行く。


「……」


 彼の人は寝椅子から降りた。


 すっくと立ち上がるその姿は燃え立つ炎のよう。しかも、怒りの炎だ。


 青年は自分が犯した過ちに気がつく。


 ——ここはお館様の聖域であったのだ。


 呼ばれもしないのに勝手に聖域へ踏み入った者に、館の主は容赦しない。ましてや、彼女に情欲を覚えた者など——。


 断末魔の悲鳴が、夏の館に響いた。





夏夜カヤ様、何もここまで——」


「我に意見するのか?」


「いえ」


 老執事はぐちゃぐちゃになった肉塊をランドリーボックスに詰め込みながら、言葉を濁した。青年の着ていた服も入っているからこのボックスごと家族の元へ送ればいい。


「人間なぞ、ろくな者がおらん」


「……そうでございますね」


 丁寧に白い大理石の床を拭きながら、老執事は答える。はて、この床をぬぐうのは幾度目か。


 拭った布をランドリーボックスへ放り込むと、ついでに自分のぐちゃぐちゃの情緒も投げ入れる。若者に嫉妬したところでお館様は変わらぬものを。


 ——ああ、何もかも。




 ぐちゃぐちゃだ。







 彼の人への情緒〜『夏の館の魔女』完

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