No.1 春に龍は芽吹く

風白狼

春に龍は芽吹く

 「春」という言葉には明るいイメージが付く。寒さが和らぎ空気が暖かくなるように。雪が解けて草木が芽吹くように。期待に胸が弾み、心が解放され、気分は浮かれて幸せになる。卒業、入学、進学、そして就職。社会の移ろいで生活が変わる。出会いが訪れ、それは時に人生を変える。恋の訪れを春に例えるのも、両者が持つ期待を表しているのだろう。

 言葉のイメージだけでなくとも、明るい時間が延び、肌に触れる空気も暖かくなれば、自然と気分も上がるものだ。だが、私は春というものに肯定的になることができずにいた。なぜなら私は――

「ぶえーーっくしょい!」

 盛大なくしゃみで思考が途切れる。鼻水が垂れ、目はしぱしぱと痒い。そう、私は花粉症なのだ。まだ肌寒さが残り、コートが手放せない時期。春を実感するにはまだ早い。だというのに、私の体は敏感に春の気配を感じている。春の訪れを知るのが雪解けでも桜の開花でもなく自身のアレルギーだ、というのはあまりにも風情がない。杉や檜にとっては確かに恋の季節なのだろう。だが哺乳類霊長目ヒト科のホモ・サピエンスにとっては、免疫系が反応する異物をばらまかれていることになる。はなはだ迷惑だ。

「えっくし! ぶえっくしょん!」

 再びくしゃみが出てしまい、私は大きくため息をついた。鼻を拭おうとして、すぐ近くに人が寄ってきていたことに気が付いた。

「あの、大丈夫、ですか?」

 その子は心配そうに私をのぞき込んでいた。よかったら、とポケットティッシュを差し出される。私はお礼を言って、ありがたく一枚もらった。鼻をかみながら、親切なその子を観察する。可愛い子だ。年はたぶん私と同じくらい、年相応のあどけなさが垣間見える。目はくりくりと大きく、顔は小さく小動物の印象を受ける。

「風邪なら無理しないでくださいね」

 鈴が転がるような可愛らしい声で、微笑みかけてくれる。見ず知らずの私を気に懸けてくれるなんて、とても心の優しい子だ。

「ありがとう。でもこれは花粉のせいだから」

「そうでしたか。大変ですね」

 私がお礼を言えば、その子は微笑んだ。力になれなくて申し訳ないと、同情してくれている。遠慮がちに笑う顔が可愛らしくて、私の心臓は撃ち抜かれた。どきどきと鼓動が早まって、顔に熱が集まる。言うなれば、そう、私の心に春が訪れたのだ。

「あの!」

 気付けば、私は衝動のまま声が大きくなっていた。相手はきょとんと目を丸くする。その驚いた顔さえ可愛らしい。

「私は綾文。古賀綾文といいます。よければ、お名前を」

「春野です。春野小梅」

 つい迫るように名乗ってしまったが、相手は快く答えてくれた。春野小梅、名前までかわいい。梅は早春に可憐な花を咲かせ、春を告げるもの。ならばこの子はきっとは春の象徴だ。その一挙一動から目が離せない。もう少し、もう少しでいいから話していたい。

「小梅ちゃん。――名前まで可愛い」

「え?」

 会話を続けたい一心で、思ったことをそのまま口にしてしまった。小梅は驚いた顔をして、その頬を赤く染める。

「可愛い、ですか?」

「ええ、春の妖精を思わせる可愛らしさだ」

「大げさですよ」

 小梅は恥ずかしそうにはにかむ。手で口元を隠して、目を細めて。決して大げさなつもりはないのだが、可愛いと言われ慣れていないのかもしれない。

「それに、春というのなら、ほら」

 小梅にちょいちょいと手招きされて、私はそちらへ寄った。かがんで地面に視線を落とす。そこには小指の先ほどの小さな青い花が咲いていた。地面に這うように茎と葉を伸ばし、そこかしこに花を付けている。

「ね、こっちの方が春らしいでしょう?」

「オオイヌノフグリ、もう咲いているのか」

 小梅の言うように、これも早春に咲く花だ。健気に春を先取りする、可愛い花。……名前はあまり可愛い由来をしていないが。幼い頃は自分で見つけていたのに、今は気にすることもなくなっていた。小さな花に指で触れると、脆くうっかりと花が取れる。それを手のひらに乗せて、小梅に見せて。二人で穏やかに笑った。

「可愛いね」

「はい、可愛い花です」

 そうじゃないんだけどな、と思いながら。なんでもない会話に心が躍っている自分がいる。もう一度地面に目を向けたところで、私は別の春を見つけた。手のように枝分かれした葉を、平たく広げた植物。めくると、裏側に産毛が生えて白っぽく見える。手にとって軽く揉めば、独特ないい香りがした。

「どうしたんですか?」

 私の動作を見て、小梅が不思議そうにのぞき込んでくる。私は手にした葉を相手の鼻先に近づけた。

「いい匂いだなと思って」

「あ、これヨモギですか?」

 すんすんと嗅いで、その香りに嬉しそうな顔になる。これも春らしいですね、と表情が綻ぶ。

「ヨモギは好き?」

「いえ……。実はあまり食べないんです」

 曰く、草餅を食べるとなると、薬っぽい香りが気になってしまうのだという。子供っぽい理由だと恥ずかしそうにする姿もまた可愛い。

「まあ、ヨモギは実際薬として使われる植物でもあるからね、仕方ないよ」

 そうフォローを入れると、小梅はほっとして目を伏せた。そのぱっちりしたまつげに、思わず見とれる。横顔も綺麗だ、などと眺めていたら、不意にあっと声を上げる。

「今、何か――」

 釣られて視線の先を見ると、たしかに何かが草葉を揺らした。じっと観察すれば、ぴょんと弾丸のような勢いで小さな塊が跳ねる。平たい土色の体に、飛び出た眼球。のどがよく膨らみ、バネのような足先には水かき。

「カエルだったみたいだね」

 害あるものでなくて、ひとまず安堵する。二人でじっとカエルを眺めて、少し沈黙が訪れた。ひくひくと膨らむ喉元を見ながら、そういえば気温は大丈夫なのだろうかと思い出す。

「もう冬眠から目覚めたのかな」

「じゃあ、これも春ですね」

 何気なくこぼした呟きに返事が来て、私は思わず振り向いた。視線の先で小梅が楽しそうにしていて、やはり素敵な人だと感じる。忘れていた季節の変わり目を、私に教えてくれる人。もうこんなにも春が来ているのだと、告げてくれる人。

 ぴょん、とカエルが跳ねた。そのままどこか、草の陰に隠れてしまう。

「いっちゃった」

「いっちゃいましたね」

 二人でカエルが去った方を見送る。なんだか物寂しい。今だけは時が止まってくれればいいのにと願わずにはいられない。見えなくなってからも、しばらく同じ方を見続ける。視線を外したら、この邂逅が終わってしまうような気がした。隣の子も同じ思いなのか、視線が動かない。ひゅう、とまだ肌寒い風が吹いた。

「ぶえっくしょい!」

 風に運ばれたからか、私は盛大にくしゃみしてしまった。思い出したように鼻水が垂れてくる。締まらないな、と我ながら情けなくなってきた。隣の小梅は驚いた顔をしていたが、すぐにくすくすと笑みを零す。

「大丈夫ですか?」

「何度もすみません……」

 またティッシュを受け取って鼻を拭う。名残惜しい。が、このままでは飛沫で相手を汚してしまいそうだ。それだけは避けなくては。

「ありがとう。このお礼は、いつか必ず」

 私は立ち上がってお礼を述べる。気にしないでと微笑む姿に愛おしさを覚えて。けれど、ぎゅ、と拳を握って堪える。後ろ髪を引かれる思いで踵を返して、私はその場を後にした。



 それから幾日が経って。季節は桜が咲き誇る頃。誰もが春を疑わず、新学期に心躍らせる日。新しい教室で、私は見覚えのある顔を見つけた。

「小梅ちゃん……?」

「綾文さん! 同じクラスになりましたね」

 いつか見た時と同じように、可愛らしく綻んだ笑顔。鈴が転がるような声は、喜びで華やいで。私の胸の内で、祝福の鐘が鳴る。

 春とは、芽吹く木の属性を持ち、青龍が守護し、日が昇る東を指している。人生で言えば若き日の象徴。つまりは、そう、私とあの子の物語はここから始まるのだ。

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