第2話 名前


「なるほど」


 牛鍋の出汁ダシを味見しながら、一通り事情も飲み込んだ。記憶喪失。ひとくくりで言われるが、過去の記憶がないというものだ。


 源一郎は話を聞きながら、本棚の本をまさぐる。


「あったあった。さっすが、じいちゃん」


 源一郎の祖父、平賀源外は、しも町一の識者と言われている。本も多く持っていて、源一郎も確か前に読んだ気がしたのだ。


 記憶には三種類あるといわれていて、一つが、今までの経験を司るエピソード記憶。二つ目が、言葉の意味を司る意味記憶。三つ目に体の動きを司る行動記憶。


今回の少女のそれは、エピソード記憶が喪失している状態なのだろう。


「無理はしなくてもいいけど、なんでもいいから思い出せないかな?」

「……なんか、閉じ込められてた記憶だけ」

「閉じ込められてた? い、痛い目にあったのか?」

「ううん」


 少女は首を横に振った。


 話を聞くと、軟禁されていた施設も酷いもので、自由などは、ほぼなにもない。少女の話だと、気がついたら部屋にいたらしい。


 それでも、彼女があまり抵抗しなかったのは、記憶がなくて、自分が何者なのか分からなかったからということだった。どう行動していいかも、なにをやりたいのかもわからなかったらしい。


 時折、見知らぬ白衣の男たちが来て、部屋から連れて行かれた。頭に無数の配管がつけられた装置を被らされ、何時間も椅子に座らされた。巨大なモニター越しには自分が映し出されて、白衣の男たちからガラス越しに見られていた。


 しかし、それでなんでまた空から突っ込んできたのか。記憶と結末が全くと言っていいほど一致しない。


「っと、肉が煮えた。これは、平賀家代々で伝わる特製牛鍋だから。頬っぺたが落ちるほど美味しいから」


 グツグツと煮えた鍋を開けると、甘辛い匂いが部屋に充満した。それから、炊飯器からご飯をこんもりとよそい、漆塗りのお椀に卵を割って、肉をふた切れ入れた。


「あの……ごめんなさい。それで、その前の記憶は、本当に思い出せなくて……」

「……ほら、なにやってんの。冷める前に、食べて食べて。腹が減っちゃ戦はできない」


 源一郎は急かし、少女を食卓に座らせる。


「た、食べながら話すの?」

「話しながらが楽しいじゃないの」

「楽しい話してる訳じゃないのだけど!?」

「だからこそだよ。暗い気持ちで話してたら、どんどん暗くなっちまう。美味しいもん食べながらしてれば、いい考えだって浮かんでくらぁ」


 源一郎はそう言って、牛肉を豪快に頬張った。そんな様子を眺めながら、少女はフッと笑みを浮かべる。


「いいか。こうやって箸で掴んで食べるんだ……うん、うんめぇー!」

「ふふ……」

「どうだ、やれるか?」

「……やってみる」


 少女は頷き、箸で掴もうとするが、無常にも牛肉は箸から逃げていってしまう。何回か挑戦したが、やはり上手く掴めない。


「駄目か。やっぱし、異人が箸を使わないってのは、本当だったんだな。ちょっと待ってな」


 源一郎は台所からスプーンを持ってきた。


「俺のじいちゃんが、昔、異人と仲が良かったらしい。で、真似事で作ってみたんだ。まあ、これだとすくうだけだから楽だわな」

「……うめぇ」

「だろ?」


 そうこなくっちゃと、源一郎は指をパチンと鳴らす。白飯に牛鍋。盆と正月が一度に来たようなメニューだ。野呂に若干の罪悪感を感じつつも、普段から食べてる量が段違いなので、まあいいかと牛肉にかじりつく。


「うんまぁ……」


 豪快にご飯をかきこみながら、源一郎がつぶやく。


 ひととおり腹を膨らせた後、源一郎が少女を眺めながら思い出したようにつぶやく。


「っと、そう言えば君の名前をどうしようか? どうせなら、好きな名前つけちゃおうぜ」

「名前……」

「ちなみに、俺の名前は平賀源一郎。しも町の源さんと言えば、ちょっと名の知れたもんよ」

「平賀……源一郎君」

くんだなんて……なんか照れらぁな。それで、名前はどうする? なにか好きなものとかあればそれを名前にするとか。どうせ、思い出すまでの仮の名だ」

「……じゃあ、これ」

「ぎゅ、牛肉は不味いだろ」

「なんで?」

「いや、別にいいっちゃいいんだが、あんまり、その、女の子っぽくないし」

「これは?」

「ご、ご飯も駄目だろ」

「なんで?」

「なんでって……うーん。もっと好きな花とか、そんなのないか?」


 異人にその辺の機微を求めるのは酷かもしれないが。この少女、和の国の言葉は話せるが、文化的なものはまったく駄目なようだ。


 まあ、ある程度言葉ができて、ここで過ごしていれば和の国の作法も身につくだろう……いや、ここしも町はあんまりにも下品だから、参考にしない方がいいかもしれないが。


「じゃあ、源一郎君がつけて」

「んー。そうだなぁ」


 黒髪の少年はジッと少女を見つめた。初対面で印象的だったのは、琥珀色の瞳。いや、他にも藍色の髪も、整った輪郭も……


 と考えていたところで、長時間見つめ合っていることに気づいた。源一郎は、急に気恥ずかしくなって顔を背けた。


「コ、コハクってのは、どうだ?」

「コハク……」

「ほら、瞳の色が琥珀色だから、コハク……あー、でも漢字がちょっとものものしいかな」


 源一郎は紙に漢字を書いてみて、首を傾げる。虎の字が入ってしまうと、女の子の名前にしては物騒に感じてしまう(少女は異人なので、そこまで気にしなくてもいいとは思うのだが)。それに、画数も多いから、名前には向かない。


 少年はしばらく頭を悩ませ、やがて思いついたように、紙に筆を走らせる。


「当て字で行くか『心』に『白』と書いて、心白こはく。こう書くんだ。ちょうどいい、君は今、心が真っ白な状態だから」

「……」

「そう悲観するなって。いいか? ものは考えようだ。真っ白ってことはこれから好きなように絵が描けるってことだ。それって、ワクワクしねぇか?」

「……する」


 少女は満面の笑顔を浮かべた。


「じゃあ、他にもいくつか考えて……」

「ううん。心白こはくがいい。あなたのつけてくれたこの名前がいいの……ありがとう、源一郎君」


 心白は、自身の名前が書かれた紙をジッと見つめて答えた。

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