正気を疑う時

月井 忠

第1話

「見てくれ! これが人の脳を破壊する装置だ」

 紙製の白い小箱を手のひらに乗せ、彼は言った。


 私は黙って小箱を取り上げ、フタを開ける。


 中には貝殻が入っていた。


「良かったですね」

 私は彼に小箱を返す。


「これから実験をする予定なんだ。一緒にどうだ?」

「すいません、今暇なのでネットニュースを見ている最中なんです。静かにしてくれます?」


「そうか、ではまた来年」

 背中を見せると、彼は駅の方に駆け出し、頭から電柱に激突して倒れた。


 いきなり話しかけてきた彼とはもちろん初対面だ。


 私はふふっと笑ってスマホに目を落とす。


 記事には、春だというのに明日は紅葉が見ものだとか、ある芸能人が五人に増えたとか書いてある。


 一年ほど前から人類はおかしくなった。


 当時はまともだった報道番組が、未知の現象を報じていた。


 人の脳が「ぐちゃぐちゃ」になるという現象だ。


 未知のウィルスや細菌、あるいは汚染物質が原因だろうと大混乱だった。

 感染隔離の対策も行われたが、それでも数は増えていく。


 散発的な発症例に、世界は症状と同じく「ぐちゃぐちゃ」となった。

 彼のように「ぐちゃぐちゃ」になった人もよく見かけるようになる。


 あるいは、私の脳が「ぐちゃぐちゃ」なのだろうか。

 先程まで喋っていた彼は、私の頭の中にしかいない可能性だってある。


 そもそも、初めから正気だったのかさえ疑わしい。


 未知の症状が報道される前から、この世界は「ぐちゃぐちゃ」だった。


 訳のわからぬ理由で他国を攻める独裁者。


 命令だからと言って人を殺す兵士。


 いや、組織を責めても虚しいだけか。


 私自身、矛盾した人生を送っていた。


 結婚したいと心の底で思っていながら、結婚は人生の墓場だとうそぶいていて何も積極的に行動してこなかった。


 劇的に発症し始めたのが今というだけで、もとからこの現象は静かに進行していたのかもしれない。


 だって、誰も正気だと証明できないのだから。

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