契約結婚は終了しました

相内充希

契約結婚は終了しました

 夜明けまではまだ間がある。


 小さな明かりを頼りにトランクに詰めた荷物の最終確認をしたメリーベルは、ランプを掲げながら部屋の中をぐるりと見まわした。

(忘れ物はないわよね?)

 持っていくのはここに来た時とほぼ同じもの。質素シンプルな着替えが数着と洗面用具。数冊の本と文房具と小さな裁縫箱。そこに思い出の品が少しだけ増えた中身に頷いてトランクを閉じる。

 高価なドレスも装飾品もすべてクローゼットの中だ。


 愛しむように左手の薬指にはめた指輪を撫でる。繊細な彫刻を施されたそれはメリーベルの体の一部のように馴染んでいたけれど、これは本来自分のものではない。

 はずした指輪を丁寧にケースに収め、ドレッサーの一番上の引き出しにしまう。


 三年間過ごした部屋の調度品を目に焼き付けるよう見回すと、足音を立てないために脱いだ靴を右手に持った。


「さようなら」


 もう二度と会えない友人に告げるよう、小さく別離を告げる。そして少しためらった後、「楽しかったわ」と付け足した。

 胸の奥に小骨が刺さったような小さな痛みを感じたけれど、これはきっと気のせい。


 本来ここは、ヴィクター・サミュエル・ロブソンの妻のためにある部屋であって、メリーベルが過ごしていい場所ではない。ただ、メリーベルが三年間という期間限定で、ヴィクターの「妻役」を演じていただけ。すべては芝居だ。


「でもそれも昨日で終わり」


 何もコソコソ出ていく必要はないのだが、日が昇ってしまったら足が重くなってしまう気がするから。この部屋が偶然にもメリーベル好みで調えられていたから、そのせいで余計に名残惜しいのだろう。

 日当たりのいいここが好きだった。

 毎朝花を活け、時々お茶を飲みながら、ヴィクターと他愛もない話をする時間が好きだった。

 婚姻証明書を提出していても、二人の関係は家族や友人のようなものだった。

 互いに必要なもののために、三年だけの約束で形だけの結婚した。ただそれだけの関係。


『メリーベル、最後の日に大切な話があるんだ』

 ヴィクターが少し怖い顔でメリーベルに告げたのは二週間ほど前。実業家である彼が、急な出張でしばらく留守にすることが決まった日だった。


(本当だったら三日前には帰ってきてたのにね)


 悪天候の影響で山間の道が崩れ、ヴィクターはいまだ帰宅できていない。

 本当だったら最後のあいさつくらいしていった方がいいのだろうけれど、契約期間が終わった状態でここにいるのは、場違い感があっていたたまれなかった。実際明日以降にヴィクターを出迎えたりなどして、まだいたのか、みたいな顔をされるのもつらいものがある。


 王国だった時代は百年も前に終わっているけれど、時代が時代だったらヴィクターは貴族だった男性だ。今でも上流階級の人間であることは間違いないし、若き実業家として国内外を飛び回る彼の妻になりたいと、狙っていた女性は数多にいたという。

 本来メリーベルが肩を並べられる相手ではないのだ。


 ヴィクターの言っていた、大切な話が気にならないと言ったら嘘になる。

 三年間の労い? などと考えてみるが、そんなはずはない。妥当なのは正式な妻の紹介、もしくは気になる女性についての相談といったところだろうか。


(旦那様は一人で難しく考える癖があるから、離縁してすぐに妻を迎えるのも外聞が悪いだろうかとか、ぐるぐる悩んでいそうですものね)


 美しい妻を伴って帰って来るヴィクターを思い浮かべ、チクリとする胸の痛みを無視する。実際そんなことがあったとしても、メリーベルはきっと笑顔で二人を出迎え、おめでとうと言いながらここを去っていたはずだ。それは断言できる。


「幸せになってくださいね、旦那様」


 彼のことをいつのまにか、弟と同じくらい大切な家族として見てしまったのだろう。――もう会えないのが淋しい。それだけ……。


◇◇◇


 ことのはじまりは三年前。

 何か仕事を世話してもらえないかと、実の父の屋敷を訪ねたのが事の始まりだ。


 メリーベルは庶子だ。

 メイドをしていた母と、上流階級の父との間に生まれた。もちろん結婚はしていないが、子供として認知はされていた。

 もともと貴族には多かれ少なかれ魔力がある。メリーベルにもそれは受け継がれていたから、隠すのは罪になるからだ。


 魔力と言っても、メリーベルが使えるのは簡単な生活魔法だけだ。

 生活道具が発達した現代では使われることがほとんどないが、貧乏人には大変重宝する便利な力というのが、メリーベルの認識だった。

 言語能力に長けた母に上流階級の言葉を習い、のちに母と結婚した養父から教育を受けたメリーベルは、八歳年下の弟を大変可愛がりながら、家族仲良く幸せに暮らしていた。


 なのにそれは突然地獄に突き落とされる。

 メリーベルが十六歳の時、父母がともに事故で亡くなった。

 それから一年。弟を養うだけなら何とかなっているが、どうにか教育を受けさせてやりたいと悩んでいた時、勤めていた洋品店が店をたたんでしまい無職になってしまった。


 悩みに悩んだ末、何か仕事を紹介してもらおうと実父を訪ねた。何でもする覚悟だった。


 しかし対応してくれたのは実父ではなく、彼の妻ダニィだった。

 実父は彼女の後ろで小さくなっているのに目を丸くしたけれど、この家を支えているのは彼女だと、初対面のメリーベルでさえ一目でわかった。

 実父は見てくれがいいだけの、ただの陽気な無能もの(しかも無類の女好き!)だと、噂の端々で知っていたから、むしろこの女性が当主ならこの家も安心だろうと。彼女ならいい仕事を紹介してくれるのではないかと。なぜか無条件にそう信じてしまった。


 実父に面立ちが似ているメリーベルを見て、ダニィは面白そうに右の眉をあげた。それはメリーベルの予想に反し、親しみのある温かなものだった。


(てっきり不快そうな顔をされると思ったのに――)


 そう考えていると、ノックもなしで一人の女性が早足で入って来る。

 明るい茶髪に黒に近いほど濃い青い目のメリーベルとは対照的に、明るく波打つ金髪に明るい空色の目をした彼女は、本妻の娘ベリンダだった。


「お客様だったのね。ごめんなさい。――お母様、この方は?」

 なぜか青い顔をしているベリンダがそう問うと、ダニィがニッと口角をあげた。

「名前はメリーベル。ベリンダ、あなたの妹よ」

「「えっ?」」


 娘二人が驚きの声をあげるが、理由はそれぞれ違った。

 もともと外にも父の子供がいると知っていたベリンダは、この子がそうなのかという純粋な好奇心で。メリーベルは、憎いだろう夫の庶子に対し、まさかそのような紹介をしてもらえるとは夢にも思わなかったから。


 唖然とするメリーベルの前で、ダニィは「二人はよく似てるわね」としみじみ頷く。

 メリーベルは全くそうは思わなかったけれど、はたから見れば二人は、髪と目の色をのぞけば姉妹だとはっきりわかるほど、よく似ているらしいのだ。


 それからの展開はあまりに急すぎてよく覚えていない。

 このときヴィクターと結婚が決まっていたベリンダには恋人がいて、なんと駆け落ち寸前だったこと。

 そこに彼女そっくりなメリーベルが現れたことで、姉の代わりになぜか嫁ぐことが決まってしまったこと。


「これは仕事みたいなものよ、メリーベル」


 そう言ってダニィは、報酬として弟を寄宿学校に入れてくれることを約束してくれた。弟は養父の子なので、メリーベルの父とは血のつながりはない。それでも「親戚の子」として迎え入れるという大盤振る舞いだ。

 たとえメリーベルが離婚したとしても、卒業まで弟の面倒見るとの契約書まで交わせば、この条件を飲まない選択肢はなかった。


 ヴィクターの結婚は、彼が事業を引き継ぐためにヴィクターの祖母が出した条件だったという。彼の妻になりたいと望む女性は多かったものの、たまたまヴィクターの初恋の人に面差しが似ているベリンダに白羽の矢が立った。

 ロブソン家と縁をつなぎたかったダニィたちは大喜びだったけれど、ベリンダは逃げる寸前で、しかもお腹に新しい命まで宿っていた。顔色が悪いのひどいつわりだったからだ。


 それでもメリーベルからすれば身分違いの結婚。しかも全く知らない相手とのそれにしり込みするメリーベルに、事情を知ったうえで婚姻誓約書をもってきたヴィクターが、二つだけ条件を提示した。


 三年だけでいい。

 子どもができないよう白い結婚であることを誓う。


 それは、三年たっても子供が出来なければ彼の祖母もあきらめるから、簡単に離縁できると見越しての事だった。


 ヴィクターとしても初恋の相手(だったかもしれない)ベリンダではないから、でも急いで都合のいい妻が必要だったから。

 実父たちのほうも、彼の娘であるメリーベルを相手に差し出せば、約束をたがえたことにはならず、事業の提携も進むから。


 両者にとって都合のいいところに、ひょいっと出てきたのがメリーベルは、まさにカモがネギをしょって登場といった感じだっただろう。



 腹をくくって結婚してからは、事情を知る少数の使用人たちの協力も得て、ハリボテながらも妻を演じてきた。

 楽しいことも幸せなこともたくさんあったことを考えれば、まさに「いい仕事」だったと言えるのだろう。




 走馬灯のように思い出を振りかえりながら裏口にたどり着く。

 眠りに包まれた館はしんと静まり返り、裏口とは反対方向にある玄関ホールにある柱時計の音がかすかに聞こえてくる気がする。

 ドアを開けるため持っていたトランクを静かにおろすと、なんの気配もなかったはずの背後から声を掛けられ、メリーベルはびくりと飛び上った。


「お待ちください、奥様」

「っ! ――さ、サイラスさん。びっくりした。驚かさないでください」

「すみません。そんなつもりはなかったのですが」


 バクバクする胸を押さえて振り返れば、そこにはいつも通りビシッと一部の隙もなく身支度済ませている執事のサイラスが立っていた。ピンと伸びた背筋に、整えられた口ひげ。年齢はもう五十をとおに超えているはずだが、いったい彼はいつ眠ってるんだろう? と、こんな時でも不思議な気がしてしまう。

 それでもいつになく焦った声だったなと思い、かすかに口元をほころばせると、彼は怪訝そうに眉をひそめた。その視線がトランクに注がれてることに気づき、メリーベルは軽く肩をすくめる。養父の形見でもあるトランクは、高貴な女性が持つには不似合いな代物だが、これもメリーベルにとっては大切な財産だ。

 それだけ? と問われる前に、これですべてだと伝えた。

 後で送ってもらうようなものは何もない。


(そういえば三年前、このトランクを運んでくれたのは彼だったわね)


 昨日で契約期間が終わったことを知っているはずなのに、まだ「奥様」と呼んでくるサイラスに苦笑すると、彼は痛ましげとも必死ともいえるような色を目に浮かべた。


「奥様、せめて旦那様がお戻りになるまでお待ちください。何もこんな時間に出ていかなくても」


 周囲に配慮したのか最大限に抑えられた声は淡々としているけれど、心配そうな口ぶりに心の奥が温かいもので満たされる。それでもメリーベルは、彼の言葉にゆっくりと首を振った。


「契約期間は終わりましたもの。昔から、巣立つ鳥は古巣を汚さないものと言いますでしょう? いつまでもわたくしがいたら、むしろ旦那様が驚かれますわ。みなさんへのあいさつは昨日済ませましたしね?」


 事情を知る彼とメイド長、それから料理人以外、最後の挨拶だとは思わなかっただろうけれど……。


 何か言いかけたサイラスの後ろに気配を感じると、暗がりから当のメイド長と料理人が静かに表れた。


「ではせめてこれを持って行ってください」


 料理人が差し出したバスケットをのぞけば弁当と、日持ちのする菓子がこれでもかというくらい詰め込まれていた。菓子の半分は、メリーベルの弟ギルの好物だ。


「弟さん、もうすぐ学校の休暇でお戻りになるのでしょう。沢山召し上がるでしょうから、本当はもっと入れたかったんですけど」


 あまり重いと持っていけないだろうと気遣ったらしい。

 偶然にも養父の縁者であった内気な料理人は、最初からメリーベルの正体を知っていて沈黙を守っていてくれた。くしゃっと顔をゆがめてメイド長の陰に隠れる彼女に、感謝を込めて微笑む。


「ありがとう。きっと喜ぶわ」


 料理人を気遣うように背中を軽くたたいたメイド長が、やはり何か言いたげに逡巡したあと首を振り、気を取り直したように小さく微笑んだ。


「手紙をくださいね。引退したら絶対遊びに行きますから」

「ええ、歓迎するわ。引退してからじゃなく、休暇の時でもいいのよ?」


 今回最大の報酬である海沿いの古い家を思い浮かべ、メリーベルは明るく微笑んだ。実父からもらった家は、彼自身「本当にいいのか?」とオロオロするほどのボロ屋だ。塗装のはげた壁、雨漏りして傷んだ室内。それでも正式に譲られたメリーベルのうちだ! すべて好きにしていい家の修繕に今から腕が鳴る!


「では皆さん、ごきげんよう。お見送りに感謝するわ」

 最後まで貴婦人の役を全うしたメリーベルは、スカートを少しつまんでおどけて礼をする。するとビシッと姿勢を正した三人が揃って頭を下げたのでびっくりした。


「「「行ってらっしゃいませ奥様。いつまでも奥様のお帰りをお待ちしております」」」


(えっと……それはないわよ?)


 気持ちは嬉しいけれど—―――。


   ◆


「わあ、見違えたね! 姉さん」


 新居に入ったギルの第一声にメリーベルの頬がだらしなく緩む。ギルも一度修繕前の状態を見ているため、今回の休暇は相当覚悟をしていたらしい。

 ここへ来て一ヶ月。ギルに気持ちよく過ごしてもらおうと頑張ったかいがあるというものだ。


「でしょでしょ? お姉ちゃん頑張ったのよ。まだ水回りと寝室だけだけどね。あ、二階の左奥がギルの部屋ね。荷物が結構多いわね。重かったでしょう」

「大丈夫。ぼくもう十三歳だよ。力だってずいぶんついたんだから」


 そう言ってギルは右腕の袖をまくり、ぐっと力を入れて見せる。細くともしっかり鍛えているのが分かり、メリーベルの胸が誇らしさでいっぱいになった。


「小さかったギルがこんなに立派になって。お姉ちゃん嬉しい」

「姉さんババくさい。まだ二十一歳なのに」

「あら、いかず後家としては十分よ」

「ロブソン家でいい出会いはなかったの?」

「お姉ちゃんモテないからねぇ。とくにこれといった縁談もなかったわ」


 ヴィクターとの契約結婚を知らない異父弟のギルは、姉がロブソン家で働いていたと思っている。姉の実父が高貴な出であることだけは知っていて、寄宿学校もその関係で入学できたと思っているのだ。


「ふーん。まあ、ぼくが早く大人になって面倒をみてあげるからいいけどさ」

「あら、頼もしい。期待してるわね。まずは食事の支度を手伝ってもらおうかな」

「まかせて!」


 満面の笑みで部屋に向かうギルを見送ると、すべてが収まるべきところに収まったような気がした。

 彼もいずれ大人になり、可愛いお嫁さんを連れてくるだろう。

 それまでにはこの家はもっと住みよくなってるだろうし、家族がもっと増えても問題ないはずだ。

 海が見えるこの家は、母と養父の墓も近く、町への利便もよい最高の立地だ。


 メリーベルにとって今は長期休暇のようなもので、修繕が落ち着いたらまた近くで仕事を探そうと考えている。

 ヴィクターとの契約でロブソン家から毎月少なくない報酬は入るけど、それは永遠ではないだろう。契約終了時からメリーベルが亡くなるまでという約束でも、彼が新たに妻を迎えれば離婚した元妻への送金を止めることは十分に考えられるし、むしろそれで当然だと思っている。


 もともと断ったのに当然の報酬だと言って強行されてしまったものだから、実際には手を付けたることはないだろう。今は上流階級の貴婦人として、身なりを整える必要はないのだから。

 落ち着いたら送金を止めてもらい、送ってもらったものもすべてを返そうと決めていた。


 その時二階からギルの声が聞こえた。


「姉さん、この部屋はまだ手を付けないの? いい部屋なのに」


 彼がのぞき込んでいた部屋に気づき、メリーベルの胸が大きく音を立てる。

 それは元々日当たりの良い、おそらく主寝室だったであろう部屋だった。今は色々ながらくたが詰め込まれたうえ、雨漏りしていた影響で見るも無残な姿になっている。それでも元々の調度品がいいものだったので、手入れをすれば素晴らしい部屋になるだろう。


「うん……。順番にゆっくりやっていこうと思って」


 にっこり笑ったメリーベルに納得したように弟は頷く。でも実際は、あまりにもロブソン家の部屋と似ていて手が出せないだけだった。

 ぐちゃぐちゃの室内はメリーベルの心のようで、何度も整えようとしては手を出せずにいる。

 離れてしまえばすべて夢だったと思えると考えていた。

 少しずつ歩み寄り、大切に思っていた気持ちが家族以上のものだったと、今になって気づいてしまった。気づいても仕方がないことなのに。


 考えないようにすればするほど心は千々に乱れる。

 一心不乱に修繕に励んでいる間は無心でいられるけれど、一人の夜に枕を濡らすことを弟にはバレたくなかった。


 きょろきょろと物珍し気に部屋を見ていたギルがカーテンを開けると、舞い上がったほこりがキラキラと光って見える。

 外を覗き込んだギルが「あっ」と声をあげた。


「姉さん、車が来たよ。お客様かも」

「お客様?」


 そんな予定はないけれど、弟の顔は珍しい車にくぎ付けになっているようだ。

 まだまだ馬車が主流ななか、最近上流階級で増えてきたおしゃれな車に弟は興味津々だ。大人になったら車を運転したいという夢を持っていると言っていたっけ。


「どなたか道を尋ねに来たのかもしれないわね?」

「ああ、この辺少しわかりにくいもんね」


 人生には何が起こるかわからない。

 それは知らない道を地図もなしに進んでいくようなものだから、誰かの手助けをできるならそれに越したことはないだろう。

 もしかしたら車が故障して、ここで修理したいということかもしれないし。


(そうだったらギルが喜ぶわね)


 そんなことを考えながら玄関を開けたメリーベルは、車から降りてきた人物を目にしてハッと息を飲んだ。

「旦那様?」

 怖い顔をして車のそばに立っているのは、間違いなくヴィクターだ。

(どうしてここに?)


「あれ? ロブソンの旦那様だ。いらっしゃい、どうしたんですか?」


 呆然とするメリーベルの脇をすり抜け、ギルが人懐っこい顔で声をかけると、ヴィクターはホッとしたように表情を緩めた。どうやら怖い顔に見えたのは緊張していただけらしい。

 なぜ緊張していたのかはわからないと首を傾げたメリーベルは、あることに気づいてハッとした。


(もしかして、大事な話を聞く前に私が出ていったから怒ってらっしゃる?)


 失敗したと思った。でも同時に、そのおかげでまた彼に会えたことを喜んでいる自分もいる。


 招き入れようと一歩踏み出すと、意を決したようなヴィクターの表情に戸惑った。見たこともないような真剣な顔に、ギルも何かを感じたらしい。

「ぼく、お茶の用意をしてきますね」

 そそくさと家の中に入ってしまった。


「あ、あの、旦那様――ではなく、ヴィクター様。むさくるしいところですが、よかったら中に」

「メル!」

「っ!」

 気づくとヴィクターの腕の中にいた。懐かしい呼び名は幼いころのメリーベルのニックネームだ。


「ヴィ、ヴィクター様?」

「なぜ出ていった。大事な話があると言っただろう」

「え、あの、すみません」

 がっちりと抱きしめられたままでは、ろくな謝罪もできない。


 戸惑いと混乱と恥ずかしさで身じろぐが、ますます強く抱きしめられて息もできない。

 苦しいと訴えどうにか放してもらうと、息も絶え絶えになったメリーベルの前で、ヴィクターがしょんぼりと肩を落とした。


「すまない」

「い、いえ。大丈夫です」


 顔を上げて目が合うと、二人同時に真っ赤になってしまう。それがなんだかおかしくて二人で吹き出してしまった。


(ああ。私はやっぱり彼が大好きなんだな)


 心でこっそり想うだけなら許されるだろう。

 母のように騙されるわけではないのだからと思い、肩の力が抜ける。

 大事な話が少し怖いけれど、今は会えると思ってなかった人に会えた喜びをこっそり噛み締めよう。




 人生には何が起こるかわからない。

 出会いも別れも突然だから。



 ヴィクターの初恋の人がベリンダではなくメリーベルだったことを知ることも、彼のジャケットのポケットに入った指輪が、再びメリーベルの指にはめられることになるのも、もう少しだけ先のお話—―――。

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