第一章: 冬の世界

主従

 シュヴェスタルの夜空に月は存在しない。

 神話によれば、はるか昔、月は魔物に食べられてしまったとされている。


 その為、シュヴェスタルの夜はとても暗かった。真っ黒なインクで塗りつぶしたような漆黒の闇が広がり、普通の人間ならば松明等の明かりを持たなければ到底動けないほどだ。 


 凍てつくような濃紺の冬の空には、ダイヤのように輝く星々が散りばめられ、微かな光を放っているが、月の光に比べてしまえば、人々の役に立つとは言い難い。

 

 しかし、そんな暗闇の中を、一台の馬車が松明もつけずに猛スピードで、雪の積もったベルーガ草原を駆けていた。

 それもそのはず。彼等は北の領土、アーナガルムに住む狼の民である。

 夜目が効き、この暗闇の中でも恐怖を味わう事なく、昼間と同じように動くことのできる者達だからだ。


 馬車は速度を落とすことなく平原を走り続けている。すると、途中で小石を踏んだのか、鋼鉄製の馬車がガタンと大きく揺れた。

 乱暴な運転に舌打ちをし、小さな窓から不機嫌そうに外を睨みつけているのはアーナガルム領の領主、イヴァリオ・フルーヴァングだ。

 黒く美しい髪を肩まで伸ばし、北の狼のように鋭いアイスブルーの目をしている。青白い肌は陶器のようで、非常に美しいその青年の姿は、見た者に畏怖すら感じさせるほどだった。


「馬車は嫌いだ」

「そう申されましても。この寒さでは、馬で行くのは辛いですよ」


 イヴァリオのぼやきに答えたのは、真向かいに座っている男だ。


 イヴァリオに比べて上背があり、金色の瞳が映える浅黒い肌。灰色の髪は短く刈り上げられている。


「しかも、ベオグラーデ城から王都までは急いでも半日はかかります。そんな長時間の騎乗はイヴァリオ様には無理だと、俺は思いますが」

「レヴェッキオ……従者のくせに随分嫌味な事を言うじゃないか」

「不機嫌な顔で文句ばかり言う人と、数時間もこの箱の中に閉じ込められています。それくらいは言わせてください」

「……そんなに不満だったら今すぐこの馬車から蹴り落としてやろうか」

「どうぞ。俺がいなくても無事にお一人で王都にたどり着けるのであれば」


 イヴァリオとレヴェッキオはしばらく睨み合っていたが、この口喧嘩の勝者がレヴェッキオである明白だった。


 イヴァリオは悔しそうな顔をすると、「ふん!」と鼻をならして狼の毛皮のついた外套にくるまる。当主らしからぬ態度ではあるが、彼がまだ十八歳であることを考えれば、妥当な子供らしい反応だ。


「……だいたい僕は三日前にやっと故郷に戻ったばっかりだったんだ。それなのに帰還命令だなんて、横暴だと思わないか?母上の墓参りにも行けていない」

「でも、王都に戻らないと困るのはイヴァリオ様ですよ」

「まぁ、それは、そうだが……」

「仕方ありません。『救世主』が現れてしまったんですから」


 ――救世主


 どうにも嫌な響きだとイヴァリオは唇を噛んだ。


「召喚したのはアドラー家のユピテルだったか?流石は正義を司る鷲の民。救世主などと……大層な事をしてくれたものだ」


 皮肉たっぷりにイヴァリオが言う。

 ユピテルが連絡してきたところによると、救世主は莫大な魔力を持ち、彼さえいればこの世界が今抱えている全ての問題を解決できるという、ずいぶんとご立派な人物らしい。


 普通であれば、喜ぶべきところだろう。


 しかし、現在今王の側近として権力を握っているイヴァリオにとって、救世主の存在は自らの立場を脅かすものでしかないのが事実だ。


「鷲の民は、我等狼の民を未だに許してませんからね。罪人の末裔が王家の側近だなんて、彼等には受け入れ難いのでしょう。救世主の存在を利用して、イヴァリオ様を側近の地位から引きずり降ろそうとするはずです。しかし、まさか彼等の救世主召喚とやらが成功するなんて夢にも思ってませんでした。あれは相当の魔力を必要とする筈ですので、魔力がそう高くない彼等には無理だろうと……」

「僕達の予想は見事に外れたわけだ。全くもって読みが甘かった。それにしても、一体いつまで奴らは神話時代の先祖が犯した罪の事をネチネチ言うつもりだ?もうあれから何千年も経つんだぞ。先の大戦で、狼の民はシュヴェスタルの為に身を捧げると証明し、すでに禊は済んでいるはずだ」

「彼らはそうは思っていないという事ですよ。たとえ何千年経っていようと、彼らにとって、我々狼の民は世界を滅ぼしかけた大罪人です」


 鷲の民は自らを正義と秩序の番人と称している。罪を犯した者は決してその罪から逃れる事ができないというのが彼らの考え方だ。

 そのせいで鷲の民と狼の民の仲は神話時代から険悪なままである。鷲の民は、狼の民を世界を滅ぼしかけた罪人の末裔であると嫌悪し、彼等の存在を決して認める事はない。

 特に、鷲の民をまとめ上げているアドラー家は狼の民の頭領であるフルーヴァング家を毛嫌いしており、過去にはフルーヴァング家が王の側近であることに異議を唱え、攻め入ってきたことすらもあった。

 絶対の正義を掲げ、一度道を踏み外した者には決して容赦をしない。

 常に清く正しくあろうとする彼らには敬意を表したいが、あまりにも柔軟性のなさすぎるところは鷲の民の欠点の一つといっていいだろう。

 

「一体どんな方なんでしょうね、その救世主というのは」

「アドラー家の者より話が通じるのを祈るしかないな、元の世界にお帰り願いたいものだ」


 イヴァリオはブーツを脱ぎ、足を伸ばすと、そのままレヴェッキオの膝に乗せた。レヴェッキオの表情は動かない、じっとイヴァリオの足を見つめる。


「足癖が悪いですよ」

「五月蠅い。このまま座っていると腰がおかしくなりそうなんだ。我慢しろ」


 イヴァリオは腕を組むと目をつむり、もうこれ以上は話さないという態度を示した。


 王都ラインハルトまであと五時間以上はある。


 それまでこの忠実なしもべがどこまで耐えられるか見ものだなとイヴァリオは小さく笑った。

 

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