アリスの名前が知りたくて

天神 みつる

第1話

 夢だと分かった。なぜかは分からない。けれど目を開けた時、直感的に「ああ。俺は夢を見てる」と思った。

 目の前には真夏の日差しを受けたグラウンドが広がっている。俺は学校にいた。石灰の線もない、まっさらなグラウンドは小学校だと直感させた。そのまっさらな世界の中心に女の子がいると気付いたのは、グラウンドへと歩きだしてから。グラウンドの中央で砂をなぞって何かを描いている。真夏の光に負けない白い肌と、少し黄みがかった茶髪。柔らかそうなその髪は、風にもなびかずに女の子の横顔を隠す。

 顔が見たいと思った。どうしても。

 どうせ夢の中。起きたら覚えていないだろうと思うのに、俺は女の子の顔が見たくてたまらなかった。

「―」

 あれ、俺今あの子のこと、なんて呼んだ?

 そんな疑問もすぐに吹き飛ばされる。呼ばれてこっちを見上げた女の子の顔を食い入るようにみてしまったからだ。

 小学校低学年くらいだと思っていた女の子の顔は、思った通りの幼さだった。丸みのある輪郭と額を、茶髪がふんわり隠している。鼻も口も丸っこくて小さい。だけど、少し釣りあがった目元だけは幼さに似合わなくて、印象的だった。「涼しげな目元」って、こういう目のことを言うんだろうか、なんて思っていると、女の子はすぐにそっぽを向いて仔うさぎのようにぴょこぴょこ俺から逃げていく。

 顔を見ることができると、あの子の声を聞きたいという欲が湧いてくる。不思議と、夢の中の女の子だと分かっているのに、あの子を知りたくてたまらない。逃げられたことは少しショックだったけれど、どうせ夢。気付いた時には、俺の足はグラウンドを踏みしめて、駆け出していた。

 しかし、宙から着地した足が次に踏みしめたのは、砂ではなく、ビニル床だった。キュッと鳴った足元を見ると、俺の足は上履きを履いている。

 そこは中学校だった。転校ばかりの小学校と違い、俺にとって中学校は故郷に似ていると思う。目を上げれば、記憶そのままの母校の廊下が伸びていた。懐かしくてたまらなくて息をのむ。

 中学生の俺は、家が、いや、親父が嫌いだった。小学校たらい回しの原因だったからという理由もあるが、腫物に触るように、むしろ触らないように、俺と接しないようにしていると気づいたから。帰っても互いに挨拶もしないし、母親を介して会話をしていたあの空間が好きじゃなくて、中学時代の俺は部活に打ち込むふりをして家で過ごす時間を削ぎ落していった。

 だから、俺にとって第二の我が家と言っても過言じゃない。床だけで瞬間的に分かるというのには、少し驚いたが。苦笑を浮かべた俺を笑うような、小さな笑い声が聞こえた。いつの間にか、伸びた廊下の先に女の子がいる。相変わらず、窓から差し込む西日にも負けない白い肌、そして西日で少し赤みがかっている茶髪。あの女の子で間違いないと思ったけれど、少し大きくなっていた。中学生くらいになって、大人に近づいた顔。でも細められた目はやっぱり「涼しげ」だと思った。

 「ねぇ!─」

 自分の口から出たはずの言葉が、また分からない。呼ばれたあの子は笑って、今度は俺を呼ぶように大きく手を振った。俺はまた駆け出して、あの子を追う。けれど、見慣れた廊下は覚えがないほど長く伸びていて、あの子との距離が縮まらない。夢だからか、息は上がらないが、じれったくてたまらなくなって無我夢中で手足を振り回した。

 瞬きをした瞬間だったと思う。目を閉じて、開けて、その一瞬。俺は海の中にいた。いや海、かは分からない。とにかく、水の中。魚も、砂も、サンゴも何もない。水。

 ぼやける視界がはっきりすると、底の赤い線や、レーンを区切る浮の影で、そこがプールの中だと気付いた。夢だと思うと不思議と落ち着いていた俺は、苦しくないこと、光が降り注ぐ水面がずっと遠いことにも何も驚かなかった。

 水が恐い俺にとってこれはすごいことだ。高校の頃に友人と遊びに行った海で溺れかけて以来、俺にとって水は恐怖の対象だった。調子に乗って、沖まで泳いで、足に絡まったビニル袋か何かにパニクって、溺れたしょうもない事故。でも、目を閉じて、開けて、その一瞬で一日後の世界になっていた不可思議さと、恐怖はそのくらい衝撃的だった。普段にこにこしている母さんが、涙が幾筋も渇いた頬で無理に笑おうとしてたことや、長年話さなかった親父が一言「馬鹿が」と鼻をすすったことも衝撃のひとつだったんだと思う。

 そこまで考えて、ハッとしてあの子を探す。今まで通りなら、あの子もいるはずだ。しかしあたりを見回しても人影が見えない。どうしようもない焦燥感が湧いた時に、竜巻のような水の渦を見つけた。そこだけマドラーでぐるぐるかき回されているように、渦巻く中で茶色が見えた。

 あの子だ!

 渦の中でよく見えなくても、あの女の子が水の渦の中で必死にもがいていると分かる。苦しげに、がぼがぼ口から泡を吐き出して、俺のことすら見えないようで、光に向かって行きたいように手を遠い水面に伸ばしている。渦はそれを却下するみたいにあの子を水底へじわじわ引きずり込んでいて、俺は血の気が引いた。

 その時の感情は恐怖とかじゃなかった。ひたすらに「嫌だ!」と叫んでいたと思う。どうすればいいかなんて考えず、またがむしゃらに手足をばたつかせて、あの子に手を伸ばした。今度は捕まえなきゃいけない。その直感で俺と同じようにばたつく白い手を必死に捕まえようとした。

「─‼」

 俺の呼び声で、ようやく俺の存在に気づいたらしい女の子は安心したような泣き笑いの顔をして、今度は落ち着いて俺に手を伸ばしてくれた。小さな白い手を捕まえて、ため息をつくと俺たちは机が並んだ部屋にいた。

 そこはすぐに俺の会社だと分かった。使用者の個性に染まっているはずの机は、無個性に並んでいるが、それ以外は変わらない俺の仕事場だった。

 けれど、握った手を思い出して慌てて自分の手を見ると、小さな白い手はまだ繋がれていて、ほっとする。手の先の女の子は、今度は成長していなかった。せいぜい高校生くらいだろうか。少なくとも会社には似つかわしくない女の子は、満面の笑みで俺を見ていた。

「君、名前、なんていうの?」

 追いかけてずっと訊きたかったことが、口からこぼれた。夢の中なのに、どうしてもこの子の名前を訊きたくてここまで来たんだ。だというのに、当の女の子は不思議そうに首を横に傾けて俺を見つめ返すだけだった。声も聞けていない。名前も聞けない。お願いだから、夢から覚めて忘れることだとしても教えてほしいと口を開いた途端に、女の子とつないだ手とは反対の、空の手がぐんっと引かれて言葉を飲み込む。

 女の子がいた。いや、女性、というべきだろう。短い茶髪はストンときれいに重力に従っていて、女性は女の子とは正反対の「直線的」な印象だ。ただ、切れ長のつり目だけが女の子と重なる女性だった。

 女性は俺の腕をぎゅっと抱きかかえて、眉間にしわを寄せている。

 あ、拗ねた。

 そう感じた。俺は彼女をよく知っている。俺が一番大事にしてきた「女の子」だ。ツンツンして人を遠ざけるくせして、きっちり拗ねる理不尽な子どもっぽい彼女。俺は彼女と反対の手を自然とほどいていた。

 がくんと衝撃が合って、目の前にはリノリウムの床があった。これは…現実だ。夢はあれほどすぐ分かったのに、現実に戻るには時間がかかるとは変な話だ。そう思ってひとり苦笑いを浮かべていると、柔らかくも鋭い声が俺の耳をつんざいて、目をしっかり覚ましてくれた。

「おめでとうございますお父さん!赤ちゃん産まれましたよ!少し小さな女の子ですが、健康にはもんだいありませんから、安心してくださいね」

 にこにこと助産師が話しかけてくる。現実味がなくて、目は覚めているのに夢の中にまだいるみたいで、時間はあわただしく過ぎていく。

 病室のドアをスライドさせて、女の子を見た時、ようやく現実が追い付いてきた気がした。俺が追い付いたのかもしれない。「何か言ってよ」と弱弱しく眉間にしわを寄せる彼女の腕の中の白い女の子を見て、俺は思わず駆け寄って手を握る。

「涼子」

「何?名前決まったの?あんなに悩んでたのに、案外あっさり決めたんだね」

「あっさりでもないよ。だいぶ苦労した。でも、そうだな…、決めたってより、決まってたんだ」

 片方の眉を上げた彼女を横目に、俺は小さな女の子の柔らかい手を両手で握り直す。閉じた目元の形はよく分からないが、きっと抱いている彼女とよく似た「涼しげ」な目をしている。俺が大好きな目。そんな目を持つ女の子を「涼子」と呼びたかったんだ。

 ようやく捕まえた手をしばらく離すことはできそうにない。

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