窓辺の雫

トン之助

この感情に名を添えるなら

 窓辺のキミと言葉を交わす日々が増えた気がする。


 一言ひとこと二言ふたこと三言みこと


 キミの声は夏の夜の鈴虫のような響きで僕の心のチャイムを鳴らしていた。僕の門扉は開け放っているけれど、それでもキミは遠慮して鈴を鳴らす。


 今日は留守かな?

 今大丈夫かな?

 お邪魔してもいいかな?


 まるでキミの気遣いが聞こえてくるようで僕は耳を研ぎ澄ませてその音色の余韻に浸る。



 ある日、僕が遅れて図書室に顔を出すとキミは知らない誰かと話していた。名前も学年も知らない――男子生徒。


 その光景を入口から見た僕は動けずに固まってしまう。


 その、普段より明るい表情に。

 その、普段より笑う横顔に。

 その、普段より見上げる瞳に。

 その、普段より高い声音に。


 ――僕の心はぐちゃぐちゃに掻き乱された。



 図書委員の仕事を放ったらかしにして、僕は靴箱から靴を地面に叩きつけた。乱暴に履いた靴の踵を踏んでいる事も忘れ、逃げるように走っていく。


 なんて醜く

 なんて浅ましく

 なんて妬ましく

 なんて狂おしく

 なんて――


 僕は思い上がって、名も知らぬ男に嫉妬をした。


 少しだけ距離を縮めたと思っていたのは僕だけでそれはやっぱり勘違いだったのか。




 暗闇が支配する時間と僕の心が重なる頃、不意に背中から声を掛けられた。


「おや、こんな時間にどうしたんだい?」

「…………」


 見上げればキミが常連の本屋の店員さんが紙袋を片手に覗き込んでいた。


「……あっ」


 そしてその時初めて自分の服が濡れている事に気付き差し出された傘をじっと見つめてしまう。



 本屋の店員さん……ではなく店主だと言う初老の御仁の家へと厄介になった。実家へ連絡してくれて事情を話してくれて、夜が遅いからと一泊お世話になる事に。


 出された料理は店主の奥さんの心のこもった優しい味。湯船はひのきの香りがして都会の喧騒を忘れさせてくれるようだ。

 排水口に流れる水を見ながら、この心の膿も一緒に流して欲しいと願ってしまう。


 あの顔を知らなかった。

 あの横顔は朱色だった。

 あの声も聞いた事は無い。

 あの瞳は僕じゃない誰かに。



 気付けば店主と奥さんにそんな事を話していた。


 一言、二言、三言。


 ポツリポツリと雨粒のような僕の声を、淹れたての玉露が冷めるまでじっと聞いてくれた。


 とりとめもなく語ったのに二人はそっと僕の手を握る。


「――少年は彼女の事をどう思っているんだい?」


 真っ直ぐな瞳はほんの少しキミを思わせる。勇気を持ってキミが話し掛けてくれたのは知っている。だから今度は――



「僕は彼女の事が――」



 窓辺の雫はいつの間にか晴れていた。

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窓辺の雫 トン之助 @Tonnosuke

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