第8話 ど近眼薬師は従者志望される
「お嬢様、どうかハンナの一生のお願いでございます」
「だから、もうお嬢様じゃないってば。
薬師のアリアって呼んでよ。ア・リ・ア!」
私はずり落ちそうになる瓶底眼鏡を手の甲で押し上げ、いつもの薬用の鍋をかき混ぜていた。焦げたらまた師匠に叱られちゃうわ!
「アリアーティ「アリアーティアでもないわ。アリア!」ア……様。勘弁してください、お嬢様。ハンナにとってお嬢様はお嬢様でございます。どうしてそんなにいやがられるんですか」
相変わらず無表情のハンナが無表情のままため息をついた。いつもの事だがため息をつきつつも表情が微動だにしないところがハンナなのだ。
王子を庇って死んだことになったあの日からすでに1年。16歳になった私は師匠やシロと共にあの不思議な森で今も暮らしている。あの時の毒矢に刺された傷跡は師匠印の軟膏のおかげで綺麗に治ったし、特に問題もなく時間が過ぎていった。
ハンナは約束通りちょくちょく遊びに来てくれるのだが、来る度に私のことを「お嬢様」と呼び、身の回りの世話をしだすのだ。どこまで仕事人間なのか。
そして今日はやたらとしつこい。
「その話はもういいから」
「ですが」
「いいからおとなしく座っててちょうだい!妊婦さんなんだから!今、悪阻に効く薬を作ってるんだってば!」
「お嬢様は妊婦の生きがいを奪うのですか。お腹の我が子を立派なお嬢様の従者に育てようと心に決めているのに……」
「まだ産まれてもないのに勝手に就職先を決めないでちょうだい!私はもうただの薬師見習いなんだから従者はいらないの!自分んちの家業を継がせなさいよ」
「この子にだって選ぶ権利がございます。産まれる前から親の家業を継ぐのが決まってるなんて可哀想です」
産まれる前から薬師見習いの従者に決定されてる方が可哀想だよ!私はもう公爵令嬢じゃないんだからね!?
あれからハンナは結婚して実家の家業を継いだのだが、最近妊娠が発覚したのだ。
それはものすごくおめでたいし私も嬉しかったので諸手を挙げて喜んだ。しかしどうやら悪阻が酷いらしく困っているというので、妊婦さんにも安心安全な悪阻が楽になる薬を調合してるのだが……なんだか今日はやたらとしつこく「この子を従者に」と絡んでくる。
いつもならちょっと反論すればすぐに諦めて「ではお肌のお手入れをさせていただきます」とか言い出すのに、ハンナらしくないというか……。
「師匠、助けてくださいよ」
「おやおや」
ハンナにと体に良い薬湯を作ってきてくれた師匠がにこにこしながらハンナの背中に触れた。師匠の手はいつもほんのりと温かいのだが、その手のひらで背中を擦られハンナが珍しく戸惑いの表情を浮かべていた。
「……“森の魔女”様?あの……」
そんなハンナに師匠は「ふふっ」と笑う。穏やかな笑顔は鳩でも飛び交いそうな平和的な笑顔なのだが、その口からはとんでもない衝撃的発言が飛び出した。
「どうやらハンナさんの赤ちゃんは“魔力持ち”のようだねぇ」
「「えぇ?!」」
師匠のその発言に、あのハンナすらも目を丸くして驚きの声を上げた。ハンナが目を見開いて驚愕の表情をするなんて……ある意味お宝ショットである。それくらい珍しい。基本が無表情だからなぁ。いや、もちろん私もかなり驚いたが。というかめちゃくちゃ驚いた。それこそちょっと浮いたかもしれないくらい飛び上がってしまった。
「アリア、この子は自分から将来アリアのところへ行きたいと願っているようだよ。ハンナさんはそれを無意識に感じ取っているみたいだねぇ」
「わたしの子供が“魔力持ち”……」
ハンナはそう呟きながらまだ目立たないお腹をそっと撫でる。そして再び無表情に戻るとすっと背筋を正し直角に頭を下げた。
「ではお嬢様、この子をよろしくお願いいたします」
「ちょっ、ハンナ本気なの?!」
「我が子の願いを叶えるのは母親の役目……。必ずや立派な従者に鍛え上げてみせます。胎児の今から英才教育致します」
顔を上げたハンナは無表情なのに目の奥がギラリと光っている。ヤバい、これはマジなやつだ。
「いやいや、その前にまずは無事に産もうよ。悪阻は?ご飯食べたら気持ち悪くなって吐いちゃうんでしょ?今は安静に……」
慌てた私がワタワタしながらそう言うと、ハンナは自分のお腹に手を当てながらお腹に向かってキッパリと言いきったのだ。
「よくお聞きなさい、我が子よ。悪阻なんぞ起こして食べたものを吐いていてはあなたの栄養になりません。
しっかり食べてよく眠ってこそあなたが大きくなれるのですよ?早くお嬢様に会いたいのなら……悪阻を止めなさい」
すると一瞬ハンナの体がピクリと動き……「悪阻がおさまりました」えっ、マジでーーーー?!
え、え?悪阻ってもっとこう妊娠の神秘的な、なんちゃらかんちゃらみたいな……いや、妊娠したこと無いからわかんないけどそれでおさまるの?お腹の子供に訴えておさまるもんなの?ハンナの子供はそれでいいの?
「ハンナさんの子供の魔力はかなりのものみたいだねぇ。母体の体調まで操るなんて……将来有望だよ」
「胎児のうちからそんな膨大な魔力を持ってるなんて……すごっ……。うん、さすがはハンナだわ」
……っていうか、私の魔力なんてちょろっとしかない微々たるものなのに、そんな膨大な“魔力持ち”の子供が私の従者志望でいいの?!主人より従者の方が貴重な存在なんじゃないかしら?
その魔力を王家に示せばまさしくお祭り騒ぎになりそうな気がするが……いや、うん、まぁ……ハンナが王家に報告するわけが無いか。風の噂だがあの王子が色々やらかしてるらしいし。
警備強化されてるはずなのに護衛から逃げてひとりでのこのこ出歩いて、またもや暗殺者に命を狙われてるとかなんとか。1年前婚約者が命がけで助けてくれたのに王子はなにを考えてるのか。と国民からひんしゅくものらしい。おじいちゃん騎士様の苦労が伺える。
そろそろヒロインと出会ったかしら?絶対にヒロインとの出会いイベントをやり直してるとしか思えないし。うーん、それとも前回の不法侵入でヒロインも捕まってるのかしら?まぁ、
そしてハンナは本当に悪阻の症状が消えたらしく、師匠の作ったご飯をもりもり食べておかわりもタベていた。一応旦那さんに相談して欲しいと言ったのだが「夫の異論など存在すら認めません」と言い切って帰っていったハンナはいつものハンナだった。
「ピィ」
いつの間にか私の頭の上にちょこんとシロがとまっている。
「シロ、どこにいってたのよ?こっちは大変だったんだからね」
「ピィ?」
なんのことかわからず首をかしげるシロに私はさっきまでの出来事を伝える。わかっているのかいないのかシロはコクコクと頷いているが……いや違う。これはまた居眠りしてるようだ。
「もう、シロは呑気ね」
私の魔力を気に入って専属聖霊にまでなってしまったこの小鳥は師匠曰くそれなりにすごい聖霊らしいのだが、私から見たらクッキーの丸飲みと居眠りばかりしているズボラな小鳥でしかないのだが。
「アリア、畑の方を頼むねぇ」
「はーい、師匠!シロ、手伝ってね!」
「ピィっ」
うとうとしているシロを指先でつつくとパチリと目を開け飛び起きた。
「さぁ、今日も畑を耕すわよーっ」
最近師匠に新しい畑を任されて野菜を育てているのだが、これがなかなか難しい。手入れの仕方は師匠仕込みだから大丈夫なはずなのだが、魔力を使って育てる大根がうまく育たないのだ。でもこれがうまく育てば新しい薬の材料になるかもだし、せっかく師匠が任せてくれたのだから頑張らなくちゃ!
わずかしかない魔力だって、使い方さえ間違えなければちゃんと育つはずである。
こうして魔力を絞り出しながら畑を手入れして、さらにシロが知らないうちに聖霊の力を使って手伝っているこの畑が、後々大変な事態を引き起こすのだが……今の私はそんなことなどまだ知らずにいたのだった。
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