君は泥船に乗り込む

泡濱ゆかり

Prologue-1

 彼の生涯は、長らくの間仄暗かった。

 同世代の者達からふくよかな体型と、人より多いそばかすを理由に虐められ、挫折を知ったのだ。

 惨めな気持ちが邪魔して理由も話せず殻に籠もり、親も泣かせてしまった。

 そんな日々に耐えきれなくなった彼はある日、生きる「世界」を変えるという決断をする。他者からすれば小さな一歩。だがどれだけ些細であろうが、紛れもなく前進はしていた。

 結果的にその決断は自身にとって功を奏した。「世界」が変われば、もう自分を知る者は誰も居ない。新たに出来た暖かい仲間と恋しきあの人に囲まれて、幸せを取り戻した。ずっと此処で生きていきたいとさえ思った。

 しかし、その願いはもう叶うことはない。

 形あるものがいずれ崩れ去るように、その宿命には誰も抗えない。


 彼の愛した世界は、終わりを迎える。


 ♦


 とある世界――エルラドにある王都の入口。

 鈍い光に包まれて、イクスはゆるゆると瞼を開く。

 先ず視界に映るのは地面。次いで地面から垂直に伸びる己の足。この世界に来た時に手に入れた屈強な体躯と、それをダメ押しと言わんばかりに守る鎧。

 イクスはこの瞬間を好んでいた。自身のコンプレックスを脱ぎ捨てて、好きな自分になれたという実感を得られたこの瞬間が。

 そのままぼんやり肉体を眺めていると、背後から声が掛かる。

「イクスさん!」

 見ると、立っていたのは少女とも取れる容貌の女性。

 蜂蜜が流れたかのような長い金髪を後頭部の真ん中で一纏めに結わえ、快晴の如く澄んだ瞳をしている。背はイクスより頭一つ分低く、華奢な肢体は力を入れれば簡単に折れてしまいそうで一種の儚ささえ感じられた。

 彼女はララ。イクスの大切な人だ。

「もう、こんな時に遅刻してしまうんだから、しょうがない人ですね」

「ごめん。大事な日だと思うと、緊張して眠れなくて」

「なんですか、その理由」

 くすくすと笑いながら全く力の入っていない拳で鎧を小突かれる。

 イクスもまた照れ笑いを浮かべながら、二人で歩き出す。

 王都とはいえ出入りする人間以外近付かない入口と違って、中心部へ足を進めると、すぐに街特有の賑やかさに包まれた。

 此処は剣と魔法が主流の世界ではあるが、それだけを重要視しているという訳でもなく、細々とした部分を気遣えるよう支援を試行錯誤している最中だ。例えば、この世界にやって来た者は大抵最初に生活を手助けする為のパートナーが組まれる。イクスとララもまた、パートナー兼恋人の関係であった。

 街の中を少しでも覗けば、大抵の者が二人組、あるいはパーティーを組んでいるのが分かる。男女のペアは、それなりの確率で結婚もしていたりする。

共通しているのは、人間関係のいざこざも程々に有りながらも、皆楽しんで生きているという点だ。

 しかし、それももう。

 「寂しいけれど、きっとこの期間は人生で一番大切な時になる。そんな予感がするんです」

 街の中心。道の端によって、二人揃って空を見上げる。四季は無いが天気は変動があるので酷い雷雨にならないか心配だったが、杞憂だったようだ。ララの瞳に負けないくらいの浅葱色。最も、高い建築物に囲まれてあまり堪能は出来なかったが。

 深呼吸をする。空気にも味があるのだと、この世界に来てから初めて知った。お互い言葉は無いが、恐らく感慨に耽っているという点では同じ事だろう。

 そうしてどちらからともなく顔を見合わせ、イクスはララの手を取った。


「さあ、最後の三日間を始めよう」

 

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